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あけましておめでとうございます。さて、実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。

第9回 「源平合戦(その5)」

「室町幕府」は、将軍15代の足利義昭が最後です。北条執権が16代、この後書こうと思っている「江戸幕府」が15代ですので、長続きした中世の幕府も大体15、16代ぐらいまでで終焉を迎えていると言う事ができます。

「室町幕府」の最後の将軍は足利義昭。この方は超有名人のあの「織田信長」によって将軍職を追われて正式に室町幕府が終わります。1573年のことです。「織田信長」はゲームでも人気のキャラクターですから知らない人はほとんどいないかと思いますが、皆さんはどれだけこの人物について知っていますか?
まあ通常は、「桶狭間の戦い」とか「長篠の戦い」で有名。「応仁の乱」で広がった下克上の世の中にピリオドを打ったのもつかの間、家来の「明智光秀」に攻められて本能寺で死去。50歳。「人間50年...」の「敦盛」が好きだった。日本の歴史にキラ星のごとく現れた革命家。こんなところでしょうか?

では質問です。「織田信長」は、源氏?平氏?どちらでしょう?
実は、当然というか平氏です。一応断っておくと、藤原氏説もありますが、平重盛を祖とする平氏だったと考えられます。
要は、足利は源氏。織田は平氏なんです。で、織田(平氏)が足利(源氏)を滅ぼす。そうすると、流れからして今度は、源氏の勢力が織田(平氏)を滅ぼそうとする。皆さん、ここまできて気づきましたか?「織田(平氏)」を滅ぼした家来の「明智光秀」は、そうです。「源氏」なんですよ。
「明智光秀」は、元々土岐家の出身。土岐家は、源頼光を祖とする立派な源氏の勢力に当たるんですね。
またまた、「源平合戦」の再来。勝者は明智光秀でしたから源氏になりますよね。なんとも不思議な因縁だと思いませんか?

ところで、「明智光秀」は不思議な人物です。最初は、朝倉家に仕えていたけど、織田信長に引き抜かれ、織田信長と足利義昭を近づけることに成功。
ところが、信長に命じられた家康の接待に失敗。領地を没収され怒った光秀は毛利討伐に向かうと見せかけて信長に反旗を翻す。1582年本能寺と二条城を
取り囲んだ光秀は織田信長・信忠親子を殺害。天下を手に入れるも、毛利と和睦した秀吉に山崎の戦いで敗れ、敗走途中に土民に殺害されて生涯を閉じています。

でも、面白いのはこの本能寺の変を仕組んだのは、明智光秀ではないという説がある点です。一説には、徳川家康。一説には羽柴秀吉という2説があります。

羽柴秀吉説は、秀吉が毛利と和睦してすぐに引き返せたのはもともと明智の謀反を知っていたからで、自分に嫌疑がかからないようにうまく明智を操り、目的を達したと見るや邪魔者明智を謀反人として殺害。仇を1番先にうったように仕組んで側近の柴田以下を黙らせ、自分が天下人になるという筋書きを実行したというものです。

徳川家康説は、実は非常に面白いです。

徳川家康自身も源氏の出であり、もともと礼儀を重んじる光秀とは仲が良かった。しかも、武田が滅ぼされ、今また毛利が制圧されそうな時にあり、同盟しているとはいえ織田の家臣ではない家康は、利用されるだけされて最後に滅ぼされてしまうのではないかという危機感を抱いていたとも考えられます。
そこで、接待役の失敗で今また捨てられそうな同じ身の上の明智光秀の謀反を誘う。接待役の失敗で領地没収の光秀は織田信長が重臣の林、佐久間を追放したのを見て決起を決意。連歌の会で家康に暗号文を送ります。

「時は今、雨がしたしる五月(さつき)かな」。(「時は今」=時は今しかないという意味と土岐家が今行動を起こすという二重の意が隠されていると考えられています。「雨がしたしる」=天下を獲るという意があります。雨は天、したしる→下知る、要は天下に知らしめるという意味か?実行時期は五月頃と言っているのでしょう。実際は6月に本能寺の変は起こっています。)

明智光秀は見事に信長を討ったものの秀吉の引き返しがあまりにも早く山崎の戦いで孤立。敗れたものの比叡山に逃げ込んで身を隠し僧になった。
根拠は光秀が死んだとされる時よりも後に比叡山に石灯篭が寄進されているのですが、これに光秀の名前があることだそうです。

秀吉死去の後、実は天海僧正というお坊さんが家康の右腕として登場してきます。
家康の政治顧問のような仕事をして豊臣家を滅ぼすのに一役買った人物で「黒衣の宰相」とかって呼ばれています。
豊臣家が作った方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と文字が彫られていたのを「家康の文字を2つに分断し、豊臣家の繁栄を願うもの」と言いがかりをつけた1人が天海だったのですが、この天海こそが明智光秀であり、彼の才能を高く評価していた徳川家康が秀吉の死後、光秀の復帰を密かに画策していたというわけです。

ちなみに、天海は天台宗の僧、比叡山は平安時代に最澄が開いた天台宗のお寺。古くからあったので日本人の信仰の拠点として政治的にも長く影響力を持っていたのですが、織田信長によって焼き討ちに遭い、残った僧達は織田信長を憎むものが多かったので、明智光秀をすすんでかくまえる環境にありました。

さらに、興味深いのは、日光東照宮は家康が祀られている建築物ですが、徳川家の「三つ葉葵」の家紋の他に桔梗紋があちこちに見られます。東照宮自身は天海の意向もあって、家康を神ではなく仏として祀っている(秀吉は神=大明神として祀られたが子孫は滅びてしまったので縁起が悪い。神ではなく仏として東照権現として祀ろうと強行に主張したのが天海だった)ので、桔梗紋は天海の紋と考えることもできます。
そして、その「桔梗紋」というのは、斎藤氏の前に美濃を統治していた土岐氏の家紋としても有名なので、明智の家紋と考えられるのではないかと考えられるのです。余談ですが、明智光秀の重臣に「斎藤利三」という人がいるのですが(山崎の合戦で磔にされ死亡)、この人の女子があの有名な「春日局」。家光の乳母です。そもそも家光の光の字も「光秀」の「光」の字だし...。やっぱり、この両者の間には何かしらの関係があったのではないかと見るのも自然なのではないでしょうか?

なんかこうやって考えると歴史のロマンを感じますね。みなさんのお家の家紋はなんですか?この機会に調べてみてはどうでしょう?

さて、次回は「源平合戦のラスト」にしようと考えていますのでまたみてください。よろしくお願いします。

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