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さて、実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。
第10回 「源平合戦(その6)」
「源平合戦」もいよいよラストに突入!
ということで中世の最後「江戸時代」です。
「織田がこね、羽柴がつきし天下餅。座りしままに食うわ徳川」
という川柳があります。「織田信長」が下地を作り、「羽柴(豊臣)秀吉」が天下統一を果たしたけれど、結局それをまるまる継承したのは「徳川家康」ということでいかにも「徳川家康」が何もせずに天下をとったように聞こえますが、実際には「徳川家康」は権謀術数にたけた人であり、歴史が選ぶべくして選んだ政権なのです。
先の5回シリーズで日本の中世が「平氏(清盛)」>「源氏(頼朝)」>「平氏(北条氏)」>「源氏(足利氏)」>「平氏(織田信長)」>「源氏(明智光秀)」と順番に政権が入れ替わってきました。しかし、「明智光秀」の後の「羽柴(豊臣)秀吉」は百姓出身。そしてその後の「徳川家康」は実は「源氏」なので、先の法則がここで完全に崩れたように見えます。しかし、よく考えるとここで不思議な構図が浮かび上がります。それは、秀吉の子です。ご存知のように秀頼は、秀吉と淀君の子と言われています。(まあ、これも諸説ありますが歴史上はそうなっています。)秀吉は百姓出身ですので淀君の家系を考えてみると、淀君の母は「織田信長」の妹「お市の方」の長女なんです。(ちなみに父方の浅井長政は藤原氏だそうです。)ということは、豊臣家は平氏の血をひくことになります。ということで「源氏(明智光秀)」>「平氏(豊臣氏)」となります。(注:ただし、系図上は豊臣氏は藤原氏の子孫になっています。何故そうなるか?この話は後日お話しましょう。)そして、「家康」の登場となります。中世の歴史の因縁は途絶えていないんです。徳川家康は、源義國の子新田義重を祖とする立派な源氏の子孫です。関が原の戦いで勝利して実権を握れたのは天つまり「歴史の因縁」を味方につけたからかもしれません。
もう1つ。不思議なことがあります。中世の歴史はこの「江戸時代」で終わり、「明治時代」からは天皇中心の「近世」に突入します。そして、江戸幕府を倒したのは、薩摩・長州の下級武士達を中心とした勢力ですが「平氏」の勢力ではないんです。つまり、「中世の終わり=源平合戦の終結」という構図が浮かび上がってきます。
では、何故因縁が終結するのか?それは、徳川家康がとった作戦にあると思います。先の(その3)で紹介した「金のサラブレッド」を作ったのです。つまり、「源氏」と「平氏」の血筋をひく者を後継に据えたのです。徳川幕府が基盤をかためたのは「家光」の時代と言われています。確かに「参勤交代」「武家諸法度」等の法律が整備され、「日光東照宮」ができ一番安定してきたのがこの頃です。実は、この「家光」が「金のサラブレッド」にあたります。何故か?家康の後継秀忠の妻は、淀君の妹「お江与の方」。「信長の妹、お市の方」の三女です。この2人の間にできた嫡子が「家光」なんです。父方が源氏、母方が平氏。両氏の血を受け継いだ子が徳川3代将軍となったことで因縁を終わらせることができたのではないでしょうか?
(余談ですが、今回都合6回にわたってご紹介してきた理論は、「源平交迭思想」というのだそうです。)