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あけましておめでとうございます。さて、実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。

第8回 「源平合戦(その4)」

年内に終えようと思っていたのに、ずっと引きずってしまいました。
要は、私としては日本史の中でかなり重要な位置を占める「中世」が実は、平氏と源氏という共に元は天皇家の末裔から出た人々によって作られたということを言いたいんです。ということで、もう2回〜3回お付き合いください。

さて、「驕る平家は久しからず」ということで、ご多分にもれず「北条氏」の政権にもほころびが出てきます。
まず最初に、1221年、後鳥羽上皇が仕掛けて「承久の乱」を起こしますが、これは北条政子の演説によって御家人達がまとまり朝廷側が敗れます。
まっ、ここまでは日本国内の内乱で負けた側の土地を勝った側の御家人に褒美として与えたので良かったのですが、その後、日本初の出来事が起こります。つまり、元寇です。「文永・弘安の役」と呼ばれるこの戦いは、日本が2度にわたって、元に侵略されたという戦いです。九州に襲来した元は、新兵器「てつはう(鉄砲の元になった武器とも言われる爆弾のようなもの)」を使い、日本の武士はコテンパンにやられてしまうのですが、何故か2度とも暴風雨が都合よく吹いて(これがいわゆる「神風」(カミカゼ)の語源)くれてかろうじて侵略を免れます。ところが、これは日本国内の内乱ではなく海外からの侵略であった上、防戦一方で相手の領土を奪ったわけではないので、御家人に与えるはずの褒美はどこを探してもあるわけがありません。出費がかさんだ御家人は窮乏、幕府への不満をつのらせることになったのです。思い余った鎌倉幕府は、「永仁の徳政令」に代表される「徳政令」を出して御家人の借金を棒引きにしてしまうという奇策に出ますが、ところがこれが今度は逆に商人を中心とした一般市民の不平・不満をかってしまい、さらには「徳政令」を恐れた商人がお金を貸さなくなったため、御家人は余計に困窮してしまいます。まさに北条政権の末期症状。そこで歴史が選んだのは、源氏の流れを組む足利氏だったのでした。

足利氏は、元々源義家の三男義国を祖とする立派な源氏の系統です。ですから、源氏の嫡流が絶えた後の北条氏にとっては目の上のたんこぶ。北条氏は頼家、実朝暗殺の陰謀を企んだ後、実力のある御家人、比企氏、畠山氏、梶原氏、和田氏、三浦氏を次々と粛清して実権を握っていますが、何故か足利氏を滅ぼすことはできませんでした。
何故でしょうか。ここからは個人的意見ですが、1つは、1221年に源氏嫡流が絶えた後の混乱を狙って朝廷が仕掛けた承久の乱が原因かと思います。源氏の嫡流が絶えた後の正式な源氏の後継が足利氏であった為、頼朝政権下で集まった御家人の結束にヒビを入れたくなかったのではないかと思うのです。もう1つは、足利氏自身が北条氏側についており、北条氏と縁戚関係を結ぶなど対立する図式が表面上なかったので、北条氏が足利氏を引き摺り下ろす口実を見つけにくい状況にあったと考えることができると思います。運良く残った足利氏ですが、北条氏からは粗探しの格好の的であり、いつ潰されるかもしれない身の上だったわけですから、北条氏と足利氏は共存はできずいつか戦う運命にあったと言えます。

こうして考えると、戦いが幾度も起こっているにもかかわらず、源氏も平氏も嫡流は絶えることがあっても、家系自身が絶える事がなかったというのがそもそも不思議なことなのですが、歴史が形作る対立の図式もこれまた「いたずら」としてかたづけるには言い尽くせないものがこの「中世」という時代にはあります。

さて、足利氏ですが、1333年同じ系統の新田義貞と計って天然の要塞と呼ばれる難攻不落の「鎌倉」(北条氏)を攻め落とします。(新田義貞が稲村ヶ崎で剣を捧げて祈ったら海の水が引いた話は有名)その後、後醍醐天皇の建武の新政に参加しますが、政策が折り合わず対立することになります。1度は敗れたものの九州に落ち延びた足利氏は2年後に楠正成を破って勝利。後醍醐天皇を吉野に追いやり(これが南北朝の原因になってしまう)、念願の「征夷大将軍」の座を手に入れたのでした。

さて、次回はいよいよ皆さんのお好きな「戦国時代」をとりあげましょう。お楽しみに。


今回のJackのオススメ図書: やっぱり「太平記」関連でしょう。

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