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世界史は苦手ですが、日本史に関しては、現在も勉強中です。嫌いな方もおられるでしょうが、試験には絶対に出ない裏話を中心に紹介していきたいと思います。

第3回 「忠臣蔵異聞」(その2)

さて、前回は吉良さんについて語ってしまいましたが、実は赤穂藩側にも可哀想な人が1人います。
それは、大石良雄と同じ家老職であった「大野九郎兵衛」という人です。

<赤穂事件のおさらい>
元禄14年(1701)、赤穂藩主「浅野長矩」が江戸城内にて「吉良義央」に対し刃傷に及んだ(刀を抜いて切りかかった、つまり障害事件を起こした)。幕府は、事件を重く見て「浅野長矩」に即日切腹の処置をとるが、「吉良義央」に対してはおとがめなしの判断を下した。当時、幕府は「喧嘩両成敗」を掲げていたが、この判決を不服とした「浅野長矩」の家臣、「大石良雄」以下47名は、元禄15年(1702)「吉良邸」に討ち入りし、「吉良義央」を殺害して幕府へ自首する。幕府は、審議の上、元禄16年(1703)、「大石良雄」以下全員に切腹の判断を下した。

で、歴史上伝わっている「大野九郎兵衛」は、赤穂藩が「浅野長矩」の切腹によってお取りつぶしになった際、家老の「大石良雄」以下の殉死決議に反対して、藩のお金を持ち逃げして(つまり公金横領)脱藩したことになっています。よく「大石良雄」が忠義の士としてたたえられるのに対し、不忠義の代表格みたいに扱われている人です。

しかし、実を言うとこの「大野九郎兵衛」こそが、赤穂事件の真の首謀者であったという説があるんです。
「大野九郎兵衛」は、「大石良雄」以下が吉良邸に討ち入って見事主君の仇を討ち果たしたと聞いた後、切腹して果てるのですが、その土地は現在の山形県米沢市だったという説があります。山形県米沢市というのは、上杉家の土地なんですが、当時の上杉家は、「吉良義央」の子供を養子として跡継ぎにしていたので、「吉良義央」が赤穂藩の浪士に狙われていると知った場合は、当然ガードの固い(守りやすい)米沢に引越しする手はずになっていたんですね。つまり、もし万が一「大石良雄」が「吉良義央」を殺害できなかった場合のことを考えていたのではないかと思うんです。考えてみてください。もし、「大石良雄」の「吉良義央」殺害計画が失敗したら、当然ガードは固くなるわけで、主君の恨みは永遠に果たせないかもしれないですよね。そこまで考えていれば、「大石良雄」以下の47名が第1陣で、失敗した場合の第2陣、第3陣計画を予め保険として用意しておくのは当然のことなのではないでしょうか?しかも第2陣は意表をついた第1陣よりはもっとむずかしい暗殺計画になるわけですから、それなりの統率力や地位のあった人でなければつとまらないはずなんですね。「大石良雄」が遊興遊びにふけって敵を油断させたように、「大野九郎兵衛」も「大石良雄」と対立して悪役に徹して吉良方のマークをはずしていたという可能性もあります。つまり、「大野九郎兵衛」は、仇討ちメンバーの究極の秘密兵器だったのではないでしょうか。

たまたま、意表をついた第1陣が大成功に終わってしまった結果、生き残った第2陣、第3陣の浪士たちは、討ち入りに参加できなかったが為に、不忠義ものと後々の世まで伝えられる結果になってしまいました。その代表格が、この「大野九郎兵衛」なんです。もしかしたら、彼が一番の忠義の士だったのかもしれません。

後世まで拍手をもってたたえられる人の裏には、影で演出・バックアップにまわってしまう人がいる。しかもその人の実像が全く異なって伝えられてしまう可能性がある、それが歴史なのであります。

この辺りの話は、歴史小説の一部にも取り上げられています。そのうち、本の方も紹介できればと思います。

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