歴史裏話

HOME>歴史裏話>試験にでない日本史・世界史

実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。

第13回 「源義経の謎」

最近何かと話題の「源義経」を今回は取り上げてみます。

「判官びいき」に代表されるように、この「義経」は薄幸で同情をさそわれる人の代表格なのですが、それは、「義経」自身の性格と運命からきている気がします。
さて、「義経」の人生とその周辺の歴史なのですが、まずは簡単に紹介します。幼少時はまず父が平治の乱で敗れたことで、半ば罪人扱いにあり、平清盛の母親の命乞いによって命は助かったものの母とは別れて「鞍馬寺」に預けられます。異母兄の頼朝が鎌倉にいることを知り、平氏を打倒すべく鞍馬寺を密かに出て東に移動しますが、当時の平氏の権力が及ばなかったのは唯一東北の藤原氏だけであった為、藤原秀衡を頼ることになります。当時、東北地方を制し、一代勢力として平氏からも一目置かれていた藤原氏は、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の例え通り、義経を庇護します。そして、平氏は藤原氏と争うことは時期的に得策ではないと考えそのまま黙認してしまいます。やがて、清盛の娘が天皇の妃となり、朝廷へも発言権を増してきた清盛に対し、権力が弱まり、面白くなかった後白河法皇がその権力の盛り返しを狙い、鹿ケ谷陰謀事件を起こします(1177年)。ところがこれが発覚し、平清盛に反清盛派は一掃されてしまいます。法皇側近の謀反と言うことで法皇自身には罪は問われなかったものの実質の首謀者と見た清盛は後白河法皇排除しようと安徳天皇を擁立(1178年)。そしてついには後白河法皇を幽閉してしまいます(1179年)。これで平氏政権も安泰かと思われた矢先、皇太子で不遇の身であった以仁王が「平氏追討の令旨(皇太子が出す命令の文書)」を全国に発します(1180年)。以仁王は暗殺されますが、この令旨が大義名分となって全国の源氏が一斉蜂起。木曽義仲、源頼朝が挙兵。そして奥州藤原氏にかくまわれていた義経も一念発起し、家来とともに頼朝のもとへ参じます。そして鎌倉で指揮をとる「頼朝」の「代理」として尖兵的な役割を果たし、伝説的な「一の谷の合戦」、「屋島の合戦」「壇ノ浦の合戦」と勝利し、平氏を滅亡に追いやります。源氏の中であっと言う間に功を得た「義経」なのですが、ここからが転落、薄幸の人生となります。指揮官「頼朝」に断りなく官位を受けたということで「頼朝」と対立し、九州へ落ち延びようとするも船が難破。吉野でしばらく隠れるも追手に見つかり、最期は以前によくしてもらった「藤原秀衡」を頼って奥州(東北)に逃れます。安宅関を弁慶の機転で越えて(勧進帳)奥州についた「義経」は、ここでもまた「藤原秀衡」に快くかくまってもらうのですが、「藤原秀衡」が死去したことで形勢は一変。「秀衝」の後を継いだ「泰衡」は、「頼朝」に奥州を攻められることを恐れ、「秀衡」の「義経を立てて頼朝と対峙するように」という遺言を守ろうとした弟「忠衡」を斬り、「義経」の館を攻めます。「義経」は、「衣川」で弁慶が戦死した後自刃(1189年)。その短い生涯を終えたのでした。

ここまでが一般的な内容です。最初の「一の谷の合戦」以下、平氏との戦いの華々しい栄光に満ちた前半の人生に対し、後半は兄「頼朝」に疎まれ、追われる身の上となったところが「判官びいき」の元になったと考えられますが、それにプラスして言うと、これ程権力の犠牲になった人物も珍しいと思います。

1.父親の死
「平治の乱」で敗れた「源義朝」ですが、これは平氏との権力争いで敗れた結果死去しています。
2.鞍馬寺からの脱出
京を支配していた「平氏」から睨まれていたという背景があります。
3.奥州藤原氏を頼った点
当時、「平氏」の権力が及ばなかった聖域はここだけでした。特に「藤原秀衡」は奥州に浄土境を作ろうとしており、「義経」の考え方(「鞍馬寺」にいたので仏法などに詳しかったと思われる)に共感していたということもあるし、当時の「奥州藤原氏」が「平氏」の権力と肩を並べるくらいの「権力」を持っていたとも考えられます。
4.兄「頼朝」と黄瀬川で面会した点
以仁王の令旨に賛同したとしても、家来は数十人。「藤原秀衡」からもらった佐藤兄弟を加えても数十騎程度では何もできないと思った「義経」は、異母兄を頼って奥州を出ますが、これも結局「平氏」という権力に反抗するのと、当時の反勢力でわりと力があった「頼朝」を頼ったというのは、磁石のように権力に引かれて行く感じがします。
5.後白河法皇から官位を授かった点
「一の谷の戦い」で勝利した際、後白河法皇から官位を受けて、「後白河法皇」にいつでも会ってよいという権利を得るのですが、これが総指揮官である兄頼朝の断りを得ていなかったことから「頼朝」の怒りをかってしまいます。官位は一種の権力であり、これは「後白河法皇」が「頼朝」に権力が集中するのを恐れたため、「義経」を権力復権のために取り込んでおきたかったという思惑があったとされています。また、「頼朝」側からすると、「平氏」との戦いに功のあった「義経」には、戦いの才もあり、魅力もあるため、後々「頼朝」と権力を争う勢力になってくるのではという怖れがあったからともされています。
6.衣川の戦い
「義経」は、「頼朝」の権力を恐れた「藤原泰衡」によって最期は攻められ自刃してしまいます。

つまり、前半は「平氏」の権力に左右され、後半は「後白河法皇」と「源頼朝」の権力に左右された人生ということが出来るのです。

さて、ここまでの「薄幸」な人生が人々の心に響いたのか「源義経」には「衣川の戦い」では死んでいなかったという伝説が残っています。
1つが、「北海道逃亡説」(奥州から北海道に逃げてアイヌになったというもの)。もう1つは「ジンギス=カン説」(奥州から大陸に渡り、ジンギス=カンになったというもの。)です。それぞれの異説については有名なので調べて頂ければわかりますが、室町時代以降に出来た説のようです。
根拠としては、
1.「藤原秀衡」の遺言が、「義経」を立てて「頼朝」と対峙せよと言うものであった為、「藤原泰衡」がすぐに「藤原秀衡」の死後に急に右往左往して「義経」を討つとは思えない。
2.「義経」の首ははるばる奥州から鎌倉に運ばれてきたが、腐敗が進んでいたはずで「義経」と正確に認識できたかどうかはわからない。
といった理由です。当時は奥州以北は統治はできていなかったと考えられますので、「義経」が逃亡するには奥州は地理的にもちょうどよい場所だったともいえます。

でもって、面白いのは、後者の「ジンギス=カン」説。高木彬光氏の小説でも有名ですが、奥州から逃れた「義経」が中国大陸に渡り、モンゴルの民族の王となったとあります。根拠は、「ジンギス=カン」漢字表記にあり、「成吉思汗」という字をばらして見ると「吉成りて水干(汗という字をさんずいの水と干に分解)を思う」となり、吉が「吉野」の吉、「水干」というのが、当時の「白拍子」の衣装を意味することから「静御前」への愛を語って、「吉野(吉)の誓いが成って静のことを思う」と読める。また、静御前が頼朝に捕らえられた時に「義経」を思い「しずやしずしずのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」と詠ったことへの返書の意味もあり、「成吉思汗」をそのまま読んでみると「成(な)す吉(よし)思(も)汗(がな)」となると言った説を展開しています。

ところで、「ジンギス=カン」と言えば、料理?じゃなくって「フビライ=カン」のおじいさんにあたる人ですよね。元が日本に攻めてきたのは、「義経」が「ジンギス=カン」だとするとこう取れます。「義経」は日本を思い、帰りたい、そして兄を討って静御前を取り戻したいとの思いで死去したんだと思います。すると、息子以下はどうなります?いつか「ジンギス=カン」が言っていた日本に行ってみたい。兄の政権を滅ぼして自分達の政権を立て「静御前」を取り戻したいって思いませんか?「ジンギス=カン」の孫の「フビライ=カン」の時代になって、並ぶものなき元の発展している今こそ、祖父の故郷を見てみたい、制覇してみたいという野望、つまりは「義経」の思いに端を発する強い「意志」があの歴史的事件「元寇」となって襲来したとも考えられるんですね。
結局、2回の襲来は「神風」に阻まれ、日本侵略はかなわなかったわけですが、この出来事は「頼朝」が基礎を作った「鎌倉幕府」を揺るがす大事件となり、この襲来が発端で「鎌倉幕府」は終焉を迎えます。

歴史にはロマンがあり、つながり、しがらみがいろいろと展開して行くので、表面的な年表だけではなく「異説」や「伝説」なんかを追いかけるととっても面白いものなんですっとJackは思っています。


前の回へ戻る     次の回へ進む

歴史裏話一覧へ

JackFALLGUYの検証の部屋トップページへ