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実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。

第14回 「損な役割を演じた男」

実は、Jackは近世の歴史は苦手だったりします。中心人物が変わるので流れが読みにくいし、今までさほど絡んでこなかった世界各国とのかけひきが余計歴史を複雑にさせているというのが理由なんですけど...。
さて、苦手ではありますが、「赤穂事件」の時みたいに、近世の世の中で頑張ったのに何故かあんまり目立たない人がいます。特に可哀想なのが明治時代の外務大臣。だいたい江戸末期の開国時に外国の圧力で結んでしまった不平等条約を引き継いだ明治時代の外務大臣は、いわば負の遺産を背負ってそれをいかにプラスに日本を列強の並び称される位置にもっていくかで腐心していました。ですから、内外の不満を抑え、不平等条約の改正にこぎつけた陸奥宗光(領事裁判権の撤廃)、小村寿太郎(関税自主権の確立)はすごい外相だったなぁと思います。そして、ここで名前の出てきた小村寿太郎は、実は日露戦争の調停においても活躍するのですが、何故か当時の日本では評価してもらえませんでした。こんなに大きな仕事を2つもこなしているのに何故でしょう。
日清戦争で勝利した日本は、遼東半島の割譲と賠償金2億両をとることに成功しますが、ロシアは日本の大陸進出に異議を唱え、フランス、ドイツと組んで三国干渉し、遼東半島の返還を日本に迫りました。日本は、3国の圧力に負け、渋々遼東半島を返還しますが、この遼東半島を当のロシアが租借し大陸に進出するに至り、日本の我慢は限界に達します。明治政府はこの批判を逆に利用し、富国強兵政策をとって対ロシアに備えました。1903年御前会議でロシアとの交渉を決定。満州からの撤兵と朝鮮における日本の地位を認めるように交渉しますが、結果的に決裂。1904年の御前会議にて正式にロシアとの交戦を決定しました。
当初は、ロシア優位でしたが、1905年に旅順陥落。奉天開戦で盛り返します。そして、決定的に日本を優位に立たせたのが、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃破でした。この裏では、日英同盟が功を奏し、ロシアの同盟国であるフランスの補給路をイギリスが何度も妨害し士気を下げたという影の協力があったということも付け加えておきましょう。
しかし、日本は戦争の継続は戦費不足で無理でした。もちろん、民衆にはこのことは伝えられていません。高橋是清が奔走し、外債でイギリス・アメリカ・ドイツから資金調達をしましたが、これ以上の継続は不利になると思っていた矢先、一方のロシアも「血の日曜日事件」が起こり、戦争の継続が難しくなっていました。そこで、日本はアメリカ大統領ルーズベルトに仲介を依頼します。アメリカは強国ロシアが大きくなることを恐れ、日本に肩入れしていました。1905年講和会議はポーツマスで開催されました。小村寿太郎は、講和会議の決裂は避けねばならず、しかし、講和の条件は日本に優位でなければならずと難しい交渉を一任されます。
会議の間、ロシア語の堪能な小村は、敢えてロシア語を話せないと偽り、通訳をおいて、交渉をフランス語で進めました。ロシア語→フランス語→日本語と通訳の訳する間に次の相手の策を読み、慎重に講和会議を進めて行きましたが、最後は仲介国アメリカの圧力によって日本は賠償金をあきらめ、ロシアは領土を割譲するということで両者とも痛み分けの形になり、ここにポーツマス条約が締結されるに至ります。
ところが、こんな小村寿太郎の苦労など民衆はわかるはずもありません。日本では連戦連勝の報道がなされており、民衆は当然のごとくロシアから賠償金がとれるものと思っていました。臥薪嘗胆して苦労したことが賠償金で報われると思っていたので、このポーツマス条約の締結には納得が行きません。何故、賠償金の事項を破棄したのかと民衆の不満は高まり、とうとう「日比谷焼討事件」へと発展してしまいました。
総理大臣の桂をはじめ、伊藤博文など、政府の要職にある人々は小村の条約締結とロシアの領土割譲という面目を保った交渉の手腕を高く評価していましたが、勝ちに踊る民衆は結局小村を受け入れず、彼の帰国は凱旋などとは全く無縁なひっそりとしたものになったのでした。

ということで、この時代の屈指の外務大臣は、後世からは評価されるものの当時の民衆からは全く評価されないという非情な仕打ちを受ける結果となったのでした。



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