スペシャルドラマ「坂の上の雲」で英樹が演じる児玉源太郎は「百年に一人の知将」とも呼ばれた人物です。
ドラマでは日露戦争での活躍が主なのですが、それ以外にも数々の業績や逸話を持つ魅力的な人でもあります。
今回は、児玉源太郎が挑んだ長距離通信についてご紹介いたしましょう。
日本が開国をしてから、西洋の文明が洪水のように押し寄せてきました。彼らと対等の立場に立つためにはこれらの科学技術を吸収しなければなりません。児玉が特に関心を持ったもののひとつに長距離通信技術がありました。
いまでこそテレビや電話、インターネットは普通のものになっていますが、この時代の通信方法はモールス符号によるものが大部分でした。音声を伝える電話も実験されていましたが、海外との通話など夢物語で、東京−九州の距離が使えるようになったのは大正時代前後からだったということです。
しかし、その時代では最先端技術です、使いこなせば素晴らしい力になる。通信の重要性を児玉は誰よりも解っていました。と同時に、通信ケーブルの布設を海外の電気通信事業会社に頼っている現状に危機感も持っていたのです。
なにしろその通信ケーブルは、ロシアとも繋がっているのですから、最高機密が漏れることは火を見るより明らかです。
そこで児玉は驚くべき計画を立てました。
日本本土と大陸、台湾の間に海底ケーブルを複数ライン布設する。そのための専用船も日本が調達し、独自に布設作業も行う。そして台湾からは味方であるイギリスへの回線と連結させる。
という壮大なものです。
児玉のプロジェクトは実行に移されました。海底ケーブル布設のための専用船「沖縄丸」と、3000kmにも及ぶ通信用海底ケーブルをイギリスに発注し、ケーブル貯蔵施設を建設し、布設ルートの決定を行うなど...もちろん沖縄丸を使ってのケーブル布設も日本人の手で行います。すべてが初めてのことですから困難の連続でした。しかし、児玉たちの必死の努力で見事にケーブルは海を渡ったのです。 1897年(明治30年)に九州−台湾間に日本が独力で海底ケーブルを布設したというニュースは、世界中が驚嘆したといいます。
もちろん、この通信回線を使って、あのバルチック艦隊の動向がロシア側に察知されることなく逐一日本にもたらされたことは言うまでもありません。
しかし、開国間もない日本が数年でそこまでの技術を持てたのでしょうか?実は江戸時代、すでに通信の重要性を見抜き、実験までしていた人物がいたのです。
第十一代 薩摩藩主 島津斉彬がその人。ご存知のように斉彬は、西洋文明に非常な興味を抱いており、藩内に今で言う研究所のような施設を作って様々な試みを積極的に行っていました。
斉彬は、オランダの文献にあった電信機に注目、家臣の松木公安(後に寺島宗則と改名)、川本幸民らに研究をさせ、安政4年(1857年)に鹿児島城内で約600mの距離を隔てたモールス通信を成功させました。
斉彬はこの通信装置がかなりお気に召したようで、毎日のように実験を行っていたといいます。
日本人による電信機の試作を成功させた松本公安はさらに知識を身につけ、明治政府に電気通信の重要性を説くなど、通信の発展に大きな役割を演じ、日本の電気通信の父と呼ばれるようになったのです。
...と、ここまで読まれた英樹ファンはもうお気づきでしょう。児玉源太郎と島津斉彬、どちらも英樹が演じているのですね。二人を繋ぐ意外な共通点ですが、英樹は、
「いやぁ、だから歴史って面白いんだよな! 魅力的な二人の人物を演じることができてうれしいよ!ガッハッハ...」と、ご機嫌でした。
明治という時代を鮮やかに描いた「坂の上の雲」、この時代には映像で登場すること以外にも様々なドラマがあります。いろいろと調べてみると、もっとテレビを面白く見ることができるかもしれませんよ。
今回は、以下の資料を参考にさせていただきました。
「国際通信の日本史 植民地化解消への苦闘の九十九年」石原藤夫著 東海大学出版
「史論 児玉源太郎」中村謙司著 光人社
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