新鮮な発見が詰まっているから面白い
トータス松本(ウルフルズ、ボーカル, ぴあ、1995年、12月26日)
「僕、絵本好きなんですよ。絵本って子供のもんやって決めつけがちやけど案外大人でも楽しめますよ。子供向けに創られているから、表現がストレ一トで面白いし、だからこそ新鮮な発見がたくさんあるんです」と語るウルフルズのボーカル、トータス松本氏イチ押しのこの絵本。"身体の大きな動物は本当に食事量が多いのか"という素朴な疑間に始まリ、ゾウとネズミの一生を例に挙げ哺乳類の身体のメカニズムを説明する1冊。専門書にあるような内容でも、かみ砕いてイラスト入りで説明されると素直に納得できるから不思蟻なものだ。「口で説明するのは難しいねんけど、とにかく絵に味があるんですわ(笑い)。ほんで何でか知らんけど、この本読んで小さい頃プラネタリウムに行ったこと思い出したんです。で、何で月食や日食が起こるねん? っていう超素朴な疑問が浮かんでね・・・。そんなふうに頭では分かってても、口で説明できんこと多いでしょ? そういうことが一目瞭一然で解決できるこの本はホンマ、スゴいって。思いますよ」
いろんな物をいろんな見方で見つめて歩く楽しさ
(菅原由美子、子どもと科学よみもの、No.229、1993年、3月、1日)
ハツカネズミの短い命をあわれだと思いますか? 犬が人間よりずっと寿命の短い事を可哀相だと思いますか?「ゾウの時間とネズミの時間」を読むと感じ方がちょっと変わります。
可愛がっている動物が死んでしまうのは、とても悲しい。けれど、ネズミの中に流れる時間と犬の中に流れる時間と人間の中に流れる時間とは、それぞれ異なるもので、人間である“私”の時間を基準として、短い一生だと思うのは間違っている。それぞれがその動物に流れる時間を過ごして、等しい位の命の長さを生きている。そう思ったら、少しゆったりとした心持ちになれました。
初め、中公新書の『ゾウの時間ネズミの時間・サイズの生物学』(本川達雄著/660円)を読んで、動物のサイズとエネルギー、行動や食事と寿命の話、そして昆虫、サンゴなど広範囲にわたる生物学の話が展開していて面白いと思っていた。
数カ月後、同じタイトルの“たくさんのふしぎ”を見つけてた。一番大切で、一番伝えたい所だけをすっきりとした絵と文で表現していて、私の頭の中にすとんとその内容が入っていった。難しい事柄を平易な文章で分かり易く表現する、これはすごい事だと思うけれど、一般に向けた(専門書ではない)科学読物には欠かす事の出来ない要素であると思う。それと同時に、学問的な事柄の先に、私達に今ある価値観や物の見方とは異なる視点をもって物を見る事、世界を見る事それを教えてくれる。その事も大切な要素であると私は思うのだ。私の中に流れる時間を基としてネズミを見るのではなくて、ネズミの中に流れるであろう時間に思いをめぐらせてネズミを見ると、今までとは別の世界が見えてくる。この本はその世界を与えてくれた。五年位前、やはりたくさんのふしぎの「ぐにゃぐにゃ世界の冒険」を見た時に同じような印象を受けた。トポロジーという新しい分野の数学を、とても分かり易く説明していた。そして阿よりも物の性質を、今見えている形ではないもので提えていこうという発想がとても面白くて新鮮だった。
頭の中で形をぐにゃぐにゃとしてもう一度作り直していく…、しばらくは、これは穴一つドーナツ型、これは穴三つドーナツ型などと言いながら街を歩いていた。毎日、見ている物や接している動物を、新しいやり方、考え方で見つめるのは、とても楽しい事だと思う。そう思って見つめてみると、今迄“常識”だと自分が思っていた事の立つ土台のもろさに気づいてくる。いろんな物をいろんな見方で見つめて歩く道草の楽しさを覚えていく。そんな事を教えてくれる本が私は好きだ。
サイエンスショックを受けてしまった
(佐藤凉子、月番時評より、日本児童文学、1993年、5月号)
たかだか四〇頁の絵本仕立ての本なのに、サイエンスショックを受けてしまった。これは動物の寿命についての本。体重に関係なくどの動物も、息を一回吸って吐く間に心臓は四回打つ。心臓が十五億回打ったらみんな死ぬ、「小さい動物は、短い一生を全連力でかけぬけていくんだね。大きい動物は、ゆっくりのんびり生きていく。短くても、長くても、一生を生きぬいた感想は、あんがいおなじかもしれない」。
どっちが良くてどっちが悪いなんて考えは論の外で、ネズミにはネズミの時間、ゾウにはゾウの時間、「動物たちには、それぞれにちがった自分の時間がある。それぞれの動物は、それぞれの時間の中で生きている」。
感動して、『ゾウの時間ネズミの時間ーサイズの生物学』一中公新書一という著者の大人向けの本まで買ってしまった。買ってしまったが、私には前者の方が、とにかくやさしくて良かった。自分を基準にして言うのは何だが、日本の科学絵本の水準はとっても高いし、良くできている。ただ、大人向けの本の「あとがき」は、示唆に富んでいた。動物が変われば時間も変わるということを知ったときは、新鮮なショックを感じた、時間が違えば世界観も異なるのに、それを知らずに動物と接してきた自分の研究に意味があったのかと呆然とした、そして、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に怒りを感じた、と書き、「本書は怒りを『てこ』にして、自分自身への反省をこめて書いたものである」。(佐藤凉子、月番時評より、日本児童文学、1993年、5月号)
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サンゴ礁の生物たち
熱帯の海の素晴らしさ
(読売新聞、1985年、7月15日)
私事にわたる事だが、かつてフィジーのサンゴ礁で泳ぎ、海の中の美しさに眼を見張った事がある。その旅の機上から見た大堡礁(だいほしょう=グレート・バリア・リーフ。オーストラリアの東海岸に二千キロにわたって続く)の光景も忘れられないものだ。もし、その時、本書を見ていたら、どれだけ楽しいものになったろうと改めて思い起こされる。夏向きに、と言っては著者に失礼になるかも知れないが、熱帯の海の多様な世界が、軽快な文書の中から次々にとび出し、夏休み緑陰でひも解く、この一冊として、ぜひ、一読をお薦めしたい。
著者は、琉球大学で教鞭(きょうべん)をとり、瀬底島の熱帯海洋科学センターで孤軍奮闘される研究者だ。著者の見聞は、熱帯の海の営みの素晴らしさを、あます所なく伝えている。まず、サンゴ礁がどのようにして出来上がり、サンゴがどんな動物か、最初の二つの章で説明される。熱帯の美しい海、つまり非常に澄んだ水は実は栄養に乏しいところ(栄養になるプランクトンが多ければ光を反射し透明度は下がる)で、ここでサンゴが育つために、光合成をする藻(褐虫藻)と共生する事、そして育ったサンゴが分泌する粘液が、他の生物の生存を可能にする事など、熱帯雨林が多様な動植物の存在を可能にするのに匹敵するサンゴ礁の役割がわかりやすく説かれる。この藻は、自分が生産した栄養の九割をサンゴに提供し、サンゴはまた、自分の体にその半分だけを利用し半分は粘液にして他の生物に供給しているそうだ。
生態系の共存のメカニズ.は、とても自分勝手な人間の営みでは、考えられない様相を持っている。また、サンゴ礁の成立についてダーウィンの卓見、すなわち、火山性の島が沈み、周囲に発達していたサンゴ礁が環になって残る話なども、十九世紀の博物学が、地質学や生物学の背景の上に立つ総合的な学問であることを思わせる。三・四・五章は、このサンゴが造った石の世界で生活する様々な動物が紹介される。サンゴ自体が、樹状であったり、塊状、葉状、被覆盤状と多様に成長する。これは、サンゴの中に入って光合成する藻の存在と外界との関係である。そしてサンゴは自分が分泌した石灰の筒の中にいる。この環境に住む、エビ、カニ、サカナ、ウニ、ナマコ等、いずれもサンゴの恩恵にあずかっているのだ。そこでオニヒトデからサンゴを守るサンゴガニのようなものも出て来る。あとがきで著者が熱帯海洋研究の充実を主張するのが印象に残る。
海中の生態いきいきと
(朝日新聞、1985年、8月12日)
沖縄・石垣島のサンゴ礁を埋めたてて大型ジェッド機用の新空港を建設する計画の設置許可が、昭和五十七年に運輸省から沖縄県におり、早期着工の声が上がっている。これに対して、二十五都道府県にわたる自然保護団体など約八十団体が「魚わく海」を守ろうと反対運動を展開している。新空港をつくると、白保のサンゴ礁が長さ三キロ、幅四百メートル分消失してしまう。
ひとたび失われれぼ復旧に数万年もかかる沖縄のサンゴ礁は珍しい生物の宝庫であり、貴重な自然であることが、この小さな本に生きいきと描かれている。サンゴ礁とは、熱帯の浅い海で造礁サンゴが成長し、残された石灰質の骨格が積み重ねられて、波に耐えられるようになった浅瀬のことである。サンゴ礁形成の仕組みを明らかにしたのは、進化論で有名なダーウィンである。その透明な海中には、青や褐色のサンゴが林のようにひろがり、色あざやかな魚が群れをなして泳ぎまわっている。
オーストラリアの東海岸には、全長二千キ口にわたる世界一のサンゴ礁が知られている(グレートバリア・リーフ)。こんな巨大な構造物をつくる造礁珊瑚とは、どんな生きものなのか。イソギンチャクのようにたくさんの触手を口のまわりにもった、直径一ミリから一センチほどの円筒状のポリブ(サンゴ虫)が多数集まったものである。ポリプは分泌した石灰の筒の上に住んでいる。まわりのポリプとのすき間も石灰で埋められているので、大きな石の塊にポリプの孔(あな)が多数開いているように見える。サンゴ虫は、クラゲやイソギンチャクなど腔賜(こうちょう)動物の仲間である。
栄養分に乏しい熱帯の海水で、サンゴ虫はどのようにして生きているのか。その秘密は、サンゴ虫の体内に住みこんでいる植物の褐虫藻(ゾーザンテラ)にある。藻は、サンゴ虫の排出する二酸化炭素を原料として、太陽の光エネルギーを用いて有機質をつくりあげる。それをサンゴ虫がいただく。
そのぼか、オニヒトデからサンゴを守るカニやエビ、魚の体表につく寄生虫を食べる掃除魚の話など興昧がつきない。サンゴ礁のさまざまな生物の生活をみごとにまとめた著者の達者な筆力を高く評価したい。
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歌う生物学(講談社)
学問をたのしませようとする息づかい
(武部俊一、朝日新聞、1993年、6月27日)
海のオアシス、サンゴ礁
貧榮養の大海の
中にひろがる楽園は
多様ないのちの育つ場所
自作の「サンゴのタンゴ」を講義中に歌う。大学教授も楽じゃない。いや、この先生の場合、大いに楽しんでいる様子だ。
「幼稚園生ではあるまいし」と批判する大学生もいるが、「本物のサシゴが見たいという気持ちがわきたってきた」などと、大方の好評を得ているそうだ。
面白い講義を聴かせよう、という教授のサービス精神の延長から生まれたのが本書である。学問を楽しみ、楽しませようとする著著の息づかいが聞こえてくる。
專門家だけではなぐ、一般読者にも脳昧噌(みそ)の糧を供給ずるのが学者の義務だと考える著者は昨年、好著書『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)を出した。動物の大きさが変わると、各部分のサイズや活性がどう変わるかを調べるスケーリング学の難しい話なのだが、「ゾウもネズミも心臓は一生に十五億回打つ」といったデータで読者を引き込んだ。
本書にも、著者の専門のヒトデやウニのほか、さまざまな生物が登場すゐ。活発な人類が高等で、じっと、つつましやかに生きているものが下等だと思う生物観に異論を唱えるところが本領だ。
「ナマコの教訓歌」の章では、砂だけ食べて省エネルギー生活をしている謙虚さをこそ見習うべきだと説く。「ナマケモノの歌」は『ゾウの時間……』の続編にあたるが、心臓の動きも神経情報伝達速度も並はずれてのろいナマケモノが、同じ大きさの哺乳(ほにゅう)類に比べて五〇%ほど長生きしているらしい。
かれらを「怠け者」とさげすむ現代日本人は、生物として最低必要なエネルギーの三十三倍を消費しているらしい。摂取食糧に換算すれば、体重四・三トンの動物、まさにゾウに匹敵する。体重当たりの代謝率から時間の進み方を計算すると、人間と同じ大きさの哺乳類の二十五倍にもなるという。
具休的なデータに基づき、諭理を踏みながらも、適当に話を脱線させながら楽しませてくれる。
米国での体験をもとに、日米の科学の違いを「寿司」と「ハンバーガー」とした比較諭も面白い。日本では、素材を大切にして、事実をもって語らせるのが常道なのに対して、米国では材料に料理の腕をふるい、大胆な仮説を出す科学者が評価される。
日本の科学を面白くするには、もっとホラ吹き学生が必要だという。本書はその養成に役立つ。
いくつかの雑誌に掲載したものをまとめたせいか、文章のくりが、少し気になる。これも、お得意の歌のリフレインか。
科学朝日 (1993年、9月号)
あのベストセラー『ゾウの時間ネズミの時間』の著者が放つ最新作は生物学の奇妙奇天烈なミュージカル化だった。といっても、至極真面目なもので、歌えば生物学の本質が知らず知らずに身に付くという受験産業も真っ青な試み。
なにを隠そう、筆者はこの本の著者と同じ大学男声合唱団出身である。クラブの黄金時代を築いた先輩の歌唱力と音楽に対するセンスは当然のものと考えるが、趣味をここまで仕事(?)に利用できるものだとは思わなかった。沖縄で作った「サンゴのタンゴ」、国際会議で歌ったという「キャッチ結合組織の歌(原題は英語)」、どんな細胞でも同じ大きさという「細胞は十ミクロン」、そして名作「一生のうた」と傑作ぞろい。この春には、これらをBBCの番組で披露し、好評を博したそうだ。著者自演のテープはじつに楽しい。
「スイヘーリーべ…」と周期律表を覚えるのが何とか式の参考書にあったが、本川式ならばさらに覚えやすく学問の本質が理解しやすいかもしれない。「そういうのは業績として評価されないんだよ」と著者はぐちっていたが、ファンは多いのである。
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生命の知恵・ビジネスの知恵
(佐倉統,學鐙、97巻9号、2000年)
今、ビジネスのバラダイムがゆれている。金融自由化、グローバリゼーション、IT革命……。これらに戸惑う日本の経営だけではない。環境問題や情報格差(デジタル・ディヴァイド)やバイオ戦争に直面している世界中の企業が、ますます緊密化する国際経済市場の中で、激しくゆれている。
この論集は、このような新しい時代のビジネス・バラダイムを生命システムに求めて模索する試みである。編者の西山賢一(埼玉大学)は「序章」で今までのビジネスが戦争メタファーで語られていたことに異議を唱え、会社も人類史の中で登場したものだから生命パラダイムが有効であると高らかに宣言する。以下この枠組みを肉づけする論稿が、生命科学と文化人類学の論客を集めて展開される。
第一部の三章は、生命科学からの提言である。第一章は本川達雄(東京工業大学)による、動物の身体の大きさと代謝や時間感覚の関係の話。体重あたりのエネルギー消費量は身体の大きい動物(たとえばゾウ)の方が小さい動物(たとえばネズミ)より少ないという関係は、社会や企業組織にも当てはまるだろうと類推する。「社会の代謝速度」というこの概念は、証明は今後の課題だが、なかなか魅力的である。この概念によれば、大企業の方が社員ひとりひとりは働かないという話になる。
第二章では嶋田正和(東京大学)が、カワラノギクという花がどのようなところに生息するか、格子モデルとコンピュータ・シミュレーションを駆使して、弱小種の生き残り戦略を考える。
澤口俊之(北海遺大学)による第三章は、人間の脳進化過程を説明するコラム重複モデルの解説。知能(IQ)よりも脳の前頭連合野の能力をあらわすPQの重要性が説かれる。
続く第二部は文化人類学からのレポートで、いずれもキーワードは「身体性」である。まず第四章の船曳建夫(東京大学)は、能やフラダンスを通して、世界と身体の関係を考察する。からだは世界を作る、しかしもともと兼ね備えている「自然」としての制約からのがれることもできない。この葛藤のはざまに、ダンスの魅力が生じる。
第五章では譲原晶子(信州大学)が、身体表現のリズムを分析することでコミュニケーションにおける身体性と歴史性を復権する。意味と形式の二分法を排し、人と人は共存するだけでコミュユニケーションしているのであると喝破し、「表現の意図ということを前提に身体表現を議論することはできないのである」(一九九頁)と断言する彼女の思いきりの良さには、心から拍手と喝采をおくりたい。
近代教育システムと徒弟制度を比較対照すると、学校教育的な学習が日常性とのつながりをもともと持ちえないことがあぶりだされる。第六章で福島真人(東京大学)はそれをふまえつつ、両者を安直に融合させるのではなく、両者の間に横たわる絶対的かつ絶望的とも思える差異に穴を穿とうとする。
最後に、井関利明(慶慮義塾大学)と編者の西山賢一による対談が、各章の内容とビジネス・バレラダイムの関係を再確認する。インターネット・ビジネスを持ち上げすぎているところが気になるが、談論風発、楽しくも刺激的な対談だ。
全体的にいろいろな楽しみ方ができる本である。生命科学や文化人類学の手ごろな水先案内としても読めるし、もっと気楽に知的刺激を楽しむ科学エッセイ集として読んでもいいだろう。ただ、ビジネス・パラダイムのヒントを得るために読むのは、ちょっと苦しいものがある。ビジネスとの関連について論じている章もあるが、この点では第一章(本川達雄)をのぞいてはあまり成功していない。巻末の井関・西山対談はそこをフォローアップするための機能をはたしているが、全体の巻末にくるのがつらいところだ。各章末に、その章の内容とビジネスの関係を論じている対談関連部分を付けた方が読者にとっては親切だっただろう。だが、ビジネスと生命パラダイムの関係が、ホットな「狙い目」であることは事実だし、この本を読むとそのことはよく実感できる。続編が期待される。
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おまけの人生
「時間の主人たれ」の勧め
(吉田直哉,読売、8月1日、2005年)
心臓が15億回打つと、ゾウもネズミも私たち人間も死ぬ。一生に心臓が打つ回数はほぼ同じなのだそうである。
ゾウとハツカネズミでは、体重が十万倍ちがう。懐胎期間も寿命も、みな体重の4分の1乗に比例するから、ゾウの方がネズミより十八倍ゆっくりした時間を生きているのだという。
前著『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)でも生物学の視点からユニークな文明批評を展開した著者が「老いの時間」について語った、まことに奥行き深い思索の書である。
心臓が15億回打つと死ぬというが、人間の場合は40代で打ち終わるのだそうだ。いまの寿命の半分だが、計算ちがいではない。人類の長い歴史を通して、ほんらい寿命はそのくらいだった。50歳以降の老いの時間は、自然界には存在しないもので、医療技術などにより人為的につくられた、いうなれば「おまけの人生」。だから若いころの時間とはまったくちがう、異質なもののはずだと著者は考える。
その考察を記した「道元の時間」は、没後750年、道元大遠忌(だいおんき)のフォーラムでの講演に加筆したもので、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「有時(うじ)」の章に学んで現代を考える、この書の圧巻。道元は時間を物理的にではなく生物的に捉(とら)えて、「時間とは、まっすぐ飛び去って行ってしまうものだとだけ考えてはいけない」とはっきりと書く。(「時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げえ)すべからず」)。つまり流れ去って行く、ベルトコンベアのようなものだと考えてはいけない、というのだ。
物理の時間だと、今は一瞬でしかない。それに対し、生物は今しかなく、つねに今という時を生み出しているのだ(「尽力経歴(じんりききょうりゃく)」)。それでなければ老いは若さのなれの果てにすぎない。生物の時間は、テープとちがってCDのように自由に頭出しでき自在に飛べるのだ。「時間の主人となれ」の勧めは、この時間にこれから大量突入する団塊世代にも大いに有益だろう。
生物学の視点で「正法眼蔵」を読んでみせる自在にして全的な視野
池田晶子(週刊ポスト、2005年12月9日号)
ナマコ研究三十年、ベストセラー『ゾウの時間ネズミの時間』の生物学者によるエッセイ集である。
「科学エッセイ」と言えば言えるのだろうけど、扱われている科学の事柄そのものより、扱っている著者のお人柄の方が先に感じられて、何というか、妙趣であった。私は何度も笑ってしまった。
たとえばこの先生、息子に「究理」と命名した。科学者の子にふさわしいというだけではない。ナマコは英語で「sea cucumber」だから。そして、子供が産まれるたびに、子守歌を作ってあげるのだと、「究理くん」の歌が紹介してある。楽譜つき。「アリストテレスの動物進行論」という歌も載っている。〈歩くためには、長い足 空を飛ぶには広い羽 自然は動物おのおののために 可能な限りのよいものをつくる〉これも楽譜つき。
それもそのはず、この先生は、シンガ―・ソングライター・バイオロジストとして、講義で歌うだけではなく、『歌う生物学必修編』CD三枚組をも、ものしておられるのだった。
著者には深い信念がある。世は「科学教」時代、とくに物理学が絶対とされている。世界のすべてを物質に還元し、単純化、普遍化して理解したとするものである。しかし生物学はそうはゆかない。
生物の多様性、個別性をこそ普遍的な仕方で理解しなければならない。質よりも量、ひいてはお金を至上の価値とするこの時代にこそ、このような生物学的思考法は必要なのではないか。
そう考える著者が、しかし科学的世界観を絶対とせず、世界を理解するためのあくまでも道具と捉えていることを示すのが、「道元の時間」である。生物学の視点で『正法眼蔵』を読むというそれは、妙に辻棲があっていて面自かった。
道元と言えば、その時間論だが、「われを排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭頭物物を時時なりとちょ見すべし」(私を並べて全世界とし、この全世界にある人々や物々をそれぞれの時間だとみなすべきである)、これを物理学的世界観で理解するのは不可である。しかし、ゾウもネズミも、その寿命とエネルギー消費量から換算される独自の時間を生きていると見る著者にとっては、これも納得のうちにある。「悟った」人間には、時間すなわち存在とは、このようなものなのではなかろうかと。
私は、どの科学者も、このような自在にして全的な視野をもつべきだと思う。なるほど「科学」は、「世界」の理解には貢献したかもしれないが、「自分」もしくは「自分の人生」を理解するためには、ほとんど無力である。人生は物理的時間に乗って流れ、行き着く先は老いと死だけ。それで人は若さの時間にしがみつくことになる。しかし著者によれば、人間の老いの時間は、生物学的には、「おまけの人生」。だからこそ、「尽力経歴」しようではないか。
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「長生き」が地球を滅ぼす
軽妙にして重い一冊
(櫻井 孝頴,読売、2月20日、2006年)
現代人の寿命は自然に生きる動物としての寿命ではない。いわば人工寿命である。
著者はまず、得意な時間論を駆使して、時間の速さはエネルギー消費量に比例すると説く。車は時速60キロ、徒歩は4キロ、車に乗ると時間が15倍速くなる。飛行機、携帯電話、速いつまり便利なものは、造るにも動かすにも沢山のエネルギーが必要だ。わが国では、体が使うエネルギーの40倍のエネルギーを国民一人ひとりが使っている。
その体の耐用年数が著しく伸びている。象は50歳を過ぎると歯がすり減って食が細り体も弱る。入れ歯をしてやればもっと長生きする筈(はず)だ。私達の寿命は人工臓器類や環境の絶えざる改善により支えられているが、背後には莫大(ばくだい)なエネルギー消費がある。
伸びた寿命のコストを払い続けられるか。先進国が共有する禁断の課題に、他の生物との時間比較という搦(から)め手から踏み込んだ軽妙にして重い一冊。(阪急コミュニケーションズ、1600円)
刺激的な「生物学的時間論」
(渡邊十絲子、 週刊新潮3月9日2006年)
ネズミとゾウの寿命は数十倍も運う。ネズミの一生ははかなく、ゾウは長寿というふうに見えるが、じつはネズミもゾウも「心臓が15億回打つ』だけの時間を生きる。生物によって時間の流れは異なり、主観的にはゾウもネズミもほば同じ密度の一生を過ごすのではないか。
これが、著者のかつてのヒット作『ゾウの時間ネズミの時間』での発見だった。今回は、哺乳類共通の寿命『鼓動15億回分』をはるかに逸脱して長生きしてしまう人間がテーマだ。この法則にあてはめれば、人間はなんと20代のうちに寿命を迎えるはずなのである。事実、縄文人の平均寿命は31歳。15歳ぐらいで子を産み、その子がまた次世代を産むところまで立派に見届ける二とができる。
しかし人間はより長い人生を求めつづけてきた。生殖年齢を過ぎても大多数の人が生きつづけ、これまでどんな時代の人間も体験したことのない「長い長い余生」をもった。この時間はいったい何なのか。人類はまだ未体験の事態にとまどっている段階だ。
過激な書名から「年寄りは死ね』という本だと誤解しないでほしい。本書は、現代人に生じた『長い長い余生」をどうとらえ、どう行動したら意味のあるよい時間を過ごせるか、この重大問題に取りくんだ生物学的時間論である。キリスト教も仏教も『いかに生くべきか」を説くが、そこで想定されている人生はせいぜい50年。老年期を生きる知恵は、われわれがこれから新たに創り出していかねばならないのである。
著者は『時間は一種類ではない」ことを強調する。大人と子どもでは時間の流れ方が違うし、先進国と発展途上国でも違う。この「さまざまな早さの時間」を意識することから、真に幸福な人生の追求が始まる。時間の奴隷になって過ごすより、時間の流れを使いこなして楽しく生きよう。
もう目前まで迫る大量定年時代。残る人生をどうデザインするかで、個人的な幸福度はもちろん、祉会の幸福度も大きく変化する。団塊の世代の次なる役目がここにある。
【著者インタビュー】「「長生き」が地球を滅ぼす」本川達雄氏、「定年後は自分で時間をデザインしてほしい」
(日刊ゲンダイ、2006年3月2日号)
「ゾウも鳥も人間も恒温動物はみな例外なく、心臓が鼓動を15億回打ち、息を3億回吸えば死を迎えます。動物の場合、生殖活動が終わる頃とこの寿命がマッチ。ところが寿命80年の現代人は、仮に子育てが終わるまでの50年を生殖活動とみても30年もオーバーしている。一体なぜ寿命が延びたのか。医療や食糧、石油で冷暖房を得るなど他からエネルギーを取り入れているからです。健康で長生きはいいと思われているけれど、子孫に残すべき地球の資源を食いつぶしている現状をみれば、無邪気に喜んでばかりはいられません」
ちなみに、この法則を使った寿命式を人間にあてはめると、ヒトの寿命は26年。縄文人の寿命と同じになるそうだ。
本書は、あのベストセラー「ゾウの時間 ネズミの時間」で知られる生物学者の著者の最新刊で、動物は体のサイズに合わせてエネルギーを使ったり心拍速度が決まっているという“生物的時間”の観点から、現代人と時間やエネルギーの関係を解説し、時間の新たなとらえ方を提起している。
「だからといって、早く死んだらいいとは思ってません(笑い)。ただ50歳以降は生物学的にはオマケの人生ですから、団塊世代に時間のとらえ方を変えて過ごそう、と提案したいのです。というのも、動物はゾウなど体が大きいものほど心臓や代謝時間がスローで、その分エネルギーもあまり使わない。実は人間も同じで、子どもより大人のほうが時間は遅いんですよ」
老人は子どもの3分の1のエネルギーしか使わず、時間も3倍ほど遅い。エネルギー消費量を仕事量と置き換えれば、同じ1日でも老人は30事象だが、子どもは100の事象を経験することになる。よく年を取ると1日はあっという間だというが、これは思い出したときに30%の密度しかないからで、生物学的には仕方ないことなのだ。
「でもエネルギー消費量によって密度や時間の速さが変わるということは、自分で時間をデザインできるということなんですね。定年後、不必要なスピードをカットすれば資源の無駄遣いも抑えられるし、違った時間も経験できる。自分のため地球のためにもいろいろな時間を持ち、状況に応じて使い分けたいですね」
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