平成5年度講談社出版文化賞科学出版賞選評

選考委員一五十音順・敬称略一石井威望/小松左京/都筑卓司/村山定男/渡辺格

都筑卓司


 五人の選考委員が一致して、本書を一位に選んだ。過去八回を通して、一度もなかったことである。といって、他に優秀作がなかったわけではない。自然科学の各部門にわたって十分に読みこたえのある力作が候補に挙がったが、にもかかわらず全員が本書を推した根拠は何だろう。
 内容のユニークさが最も大きな要因として挙げられる。表題のようなゾウからネズミはおろか、クジラからバクテリアに至るまで、動物が生命体であることは十分に認めながらも、一方ではそれを物理学的な個体、もっと絞って言えば力学的対象ととらえて、長さ、表面積、体積、さらに時間的要素をも加えた速さなど、生理学的な視点とともに物理学的な現象を併せ説き、その両者の関係を深く追究した研究は、少くともわが国においては極めて珍しい著書である。
 動物の硬さ、やわらかさ、衡撃、さらには流体中の抵抗、粘性などに言及し、流体工学の専門語であるレイノルズ数まで出てくる。対象が質点とか剛体とかの無味乾燥なものでなく、生命体がいかに動き動かされ周囲の環境と調和し合うかが主眼となっている。力学的法則であるため、量的な記述が不可欠であり、そのため体重の2/3乗とか3/4乗など、数学苦手には考えづらい言葉も出てくるが、数式を羅列されるよりはよほどましだろう。

受賞のことば 「一と多のはざまの生物学」

本川達雄

 ありがとうこざいます。このような地味な生物学の本が、世に受け入れられ評価されるとは、思ってもいませんでした。バイオ・ブームですね。生物学というとDNA、そう考える時代になってしまいました。生物もつきつめていくと、同じDNAだ。そう統一的に考えると、すっきりとした気分になります。でも現実にはものすごくいろんな生き物がいて、なんでこんなへんてこな物がいるの? と理解に苦しむのも事実です。
 世の中は「一と多」の緊張の中にある。そう私は思っています。多様さを切り捨て、唯一の原理で世の中を理解しようというのは間違い。逆に、複雑すぎるからと言って多様性の中に埋没しようとするのも間違い。多様さを認めながら、それをそれほど多くない複数の原理で理解しようと試みるのが、現実的ないき方だと、私は考えているのです。  時間軸は一つではない。サイズの大きい方が絶対いいわけではない。脳味噌の発達した動物の方が、必ずしも「高等」ではない。それぞれの生物は、それぞれの世界をもっており、おのおのの論理や価値観をもって生きているのだ。…こういう考え方は、生物学以外にも、広く通用する考え方だと信じています。生物学って、みんなが学ぶに値する学問だと知って欲しくて、この本を書きました。


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動物ごとに時間が変わる面白さ

(中村桂子、毎日新聞1992年、9月21日)

 動物についての現象で時間に関わるものをあげてみよう。心臓の鼓動や呼吸の間隔、腸のぜん動運動の時間、血液が体内を一巡する時間、体内でタンパク質が合成されてから壊されるまでの時間:…・日常活動の中にこのような時間がある。寿命、性的成熟や成長までの時間……これは一生にかかわる時間だ。これらの時間をさまざまな動物で比較すると、いずれも体重の1/4乗(体長3/4乗)に比例することが分かった。
そこで、ゾウとネズミでは、寿命も心臓の鼓動時間もゾウの方がはるかに長いことになり、その結果、一生の間のドキドキの回数はどちらも20億回と同じになる。因みに呼吸は5億回。これらの数は、あらゆる動物にあてはまる。したがって、数年しか生きないネズミも百年の寿命を持つゾウも一生を終える感覚は同じなのではないかと著者は推測する。時間の他、エネルギー消費量、走る・飛ぶ・泳ぐなどの速度もサイズによってきまってくる。進化の歴史の中で動物が獲得してきた設計原理が、このような大きさと時間の関係として見えてきたことによって著者の眼はひらかれる。ロボットの設計にもこの視点を取り入れると、人間になじみやすいものになる可能性があると考えるようにもなる。
  ところで、生物のサイズは何がきめるのか。まず、細胞の大きさは、拡散によって物質のやりとりができる範囲でなければならないので0.01ミリ程度。ゾウは大きな細胞でできているわけではなく、たくさん細胞を持っているのだ。サイズが小さい間は、栄養物も酸素も拡散で体中に配られるが、少し大きくなるとそうはいかない。その最大限を計算すると半径1ミリ。これを越えたら、呼吸系と循環系が必要になる。しかし自然界には変わった工夫をした存在が時々見られるもので、ヒラムシはその名の通り厚さO・6ミリと平べったいために五センチもあるのに循環系だけですんでいる。この戦略で、薄くて広ーい生きものができたら面白いのにと思うけれど、移動などを考えると五センチが限度なのかもしれない。しかし、またまた別の工夫でこれを乗り越えている生きものがいる。循環系だけで足りる最大の太さを計算すると一・三センチと出るのだが、南米にはこの太さで体重一キロのミミズが存在する。長さが三メートル以上のミミズもアフリカにはいるそうだ。広ーいのはだめだが長ーいのならできるぞというわけだ。著者の巧みな筆に誘われて、サイズの世界にのめりこんでいるうちに与えられた字数のほとんどを費やしてしまつた。車輪動物はなぜいないか、ウニやナマコはうすのろなのではなく、ちょっとだけ動くのに最適な生きものなのだなどなど。「ねえ、こんなこと知ってる」と話したい話題はたくさんあるのだが我慢しよう。サイズから見えてきた、動物が変われば時間が変わるという視点は、時間だけでなく、人間をも相対化する。それぞれの動物にはそれぞれの生き方、それぞれの世界観があることを教えてくれる。それは更に、現代人の生活がヒトのサイズに合ったものかどうかという疑問を引き出し、文明論にも展開する。素直な驚きから出発し、明確な視点で、科学的事実と推論を的確に書き分けていく。面白い科学読み物に必須なこれらの条件が整っており、読んでいて気持ちがよい。このようなけじめがついていない本が少なくない昨今だけになおさら。

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生物存在を支配する不思議な数字

(河合雅雄、朝日新聞1992年9月20日)

 

大変ユニークな本だ。のっけから哺乳(ほにゅう)類では時間は体重の1/4乗に比例する、という話がでてくる。つまり、動物は体のサイズに応じて違う単位の時間をもっているから、ゾウはゾウの時間、ネスミにはネズミの時間があるというのだ。導入部から読者をぐいと引きこんでいく。演出のうまさだ。
 身体的諸要素の長さや重量、摂食量や行動域の広さなどの生理・生態量の比較から、数理関係を導きだす研究法をスケーリングという。欧米では盛んだが、わが国ではスケーリングに関する一般書はおそらく本書が初めてで、その意味からも注目すべき本だ。動物の生活の仕方や体のつくりの中にひそむサイズのもつ秘密をさぐり、動物の世界観を読みとろうという著者の意図はほぼ達成されている。動物存在を普遍的に支配する数字として、3/4がある。すべての動物の標準代謝量は、体重の3/4乗に比例する。「この3/4乗則に、生命のもつ基本的な設計の原理が隠れている」と、著者は感をこめていうが、たしかに不思議な数字だ。脳室、肺や血管やミトコンドリアといった呼吸系器官のサイズなどが、むだなくこの数字に基づいて設計されている。なぜ3/4なのか、著者なりの説明が一応なされているが、時間と体重の相関の理由は不明だという。
 食事量、生息密度、行動圏、あるいは走る、飛ぶ、泳ぐといった行動に関して、エネルギー収支の面からのスケーリングが解説される。動物としてのヒトは哺乳類の一般則に律せられるが、文化をもった人間は3/4乗則からはずれた存在だ。たとえば、現代人のエネルギー消費量から計算すると、ゾウのサイズの動物の生活をしていることになる。また、密度と体重の関係式からみると、日本人はウサギ小屋どころかネズミ小屋暮らしだという。われわれはいかに無理し無駄なことをしているか、サイズの文明批評が面白い。
 後半はバイオメカニクスの話。車輸動物はなぜいないのか、動物と植物の違いを体の建築法に求め、棘皮(きょくひ)動物の体のデザインから生存戦略や進化を考えるなど、新しい思考の世界を開いてみせる。著者は「こんな大事なことを教えてくれなかった教育に、怒りを感じた」という。私の友人は外国人から「日本人はなぜスケーリングに興昧をもたないのか」とふしぎがられた。なんでも測定しそれによって法則化しようという思考様式はわが国の科学風土に向かないようだが、それは彼我の自然観の違いに基づくものだろう。そんなことも考えさせられる。

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視点をくつがえす自然の再発見

(吉永良正、産経新聞、1992年、9月29日)

動物の体の大きさが異なれば、世界は違って見えるし、時間の流れる速さも変化する。つまり、「世界観」が変わってくるわけだ。「私たちの常識の多くは、ヒトという動物がたまたまこんなサイズだったから、そうなっている」にすぎないと著者はいう。本書は、「サイズの生物学」の興味深い紹介であると共に、サイズという観点から人間を相対化して眺めてみようという意欲的な試みである。
 動物のサイズと体の機能や行動との間には密接な関係があることが知られている。その法則から計算すると、たとえば日本人の平均的なエネルギー消費量は体重四・三トンのゾウに匹敵する。一方、生息密度では体重一四〇グラムのネズミ並み。ウサギ小屋ならぬネズミ小屋である。現代人はやはりかなりグロテスクな生き物といわざるを得ない。表題について述べると、動物の時間は体重の四分の一乗に比例するので、ゾウの時間とネズミの時間では質的に違うということだ。当然、体重の重いゾウのほうが時間の進み具合は遅くなる。この法則は寿命や成長期間ばかりでなく、呼吸や心臓の鼓動の時間間隔、ぜん腸の蠕動運動・血液循環の時間など、日常的な生理活動まで支配している。しかし、寿命を生理活動の単位時間で割ると、その値は不思議と一致し、哺乳類ならどの動物でも一生の間に呼吸は五億回、鼓動なら二十億回という同じ数字になる。だから、数年しか生きないネズミも、百年近い寿命をもつゾウも、「一生を生き切った感覚は存外変わらないのではないか」と著者は述べている。しかしこの法則の「もっともらしい説明を、現在のところわれわれはもっていない」そうだ。サイズの生物学はこれからの学間だという印象を強くした。
 人間は自分の目の高さで自然や生き物を解釈してきた。豊かな自然環境の復活のためには、新たな視点からの自然の再発見が必要だと思う。サイズの生物学の発展に期待したいゆえんである。

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生物の“基本設計”の法則性

(日野啓三、読売新聞、1992年、9月14日)

 初め書名から、動物たちの時間感覚ないし時間意識について書かれた本だろう、と勝手に早合点して読み始めた。いま時間というものについてとても興昧があるので。だが落ち着いて考えれば、ゾウやネズミの時間感覚を科学的に(人間の勝手な感情移入ではなく)記述できるものではないだろう。
 著者は科学者らしく一種禁欲的に謙虚に語っている。まず人間の作った時計を基準にした時間が、全存在に共通の客観的時間ではないだろう、と人間中心主義的な時間感覚に疑義を呈したのち、生物たちの時間を、寿命、成人化するまでの時間、息をする時間闇隔、心臓の拍動間隔、血が体内を一巡する時間など、一客観的に測定できる時間に限定して考えていく。
 そして大小の哺乳類について測定した結果「時間は体重の1/4乗に比例する」という法則が成り立つことを明らかにする。つまり体重が十六倍だと時間が二倍になる。大きさによって、右にあげた諸作用の時間は違っている。ところが哺乳類では一生の心臓の拍動は約二十億回、呼吸は約五億回と変わらない。寿命百年のゾウも数年しか生きないネズミもほぼ同じ回数である。「一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか」というおもしろいことになる。
  また標準エネルギー消費量は大型動物でも単細胞生物でも「体重の3/4乗に比例する」という測定結果がでている。これは「時間は体重の1/4乗に比例する」という法則と同じように生命体の「基本的な設計の原理」「動物の根本デザイン」に他ならないだろう、と著者はみずから驚いている。
 こういうすっきりした法則性を導き出す思考法というのは、やたらに生命の神秘を言いたがる感覚に対して、ある種の快さがある。この覚めた客観性は貴重である。ただ他の生物たちの時間感覚を何とか想像したいという文学的好奇心も私は捨て難いけれども。

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目からウロコが落ちる本


(中野美代子、週刊朝日、108巻38号、2003年)

  目からウロコが落ちる本というのはいろいろあるが、『ゾウの時間ネズミの時間』を読んだときは、かなりデカいウロコが落っこちた。ヒトの時間も、神話伝説の世界では極度に相対的である。仙界の一日は、俗界では一年にあたる、というように。
 動物の世界で時間が相対的なものだとは、なんとなくわかっていた。しかし、本書によれば、「動物では、時間が体重の1/4乗に比例」し、「体長の3/4乗に比例する」という。これだけでは抽象的すぎるが、挙げてある実例のことごとくに納得し興奮すること請け合いだ。
 せっかくの夏休み、海辺に行ったらヒトデをよく見よう。こんな役たたずの、サイズの大きい生き物が、なんで海辺にごろごろいるんだ? とバカにしたら、ヒトデの側から、「悪知恵をしぼらなければ生きて行けない生活をしている方が、よっぽどバカだ」と言い返されるらしい。ともあれ本書は、動物のサイズやデザインの論理についての、めっぽう面白い入門書なのである。

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朝菌ハ晦朔ヲ知ラズ

(山本夏彦、週刊新潮「夏彦の写真コラム」、1993年、1月21日)

   本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)とかいう新刊の題だけ見て、朝菌は晦朔(かいさく)を知らずという箴言(しんげん)を思いだした。ものの本でおぼえたのではない。少年のむかし私は五十翁に親炙(しんしゃ)して聞かされたのである。この謎めいた言葉はよく分らなかったから、かえってながく記憶に残ったのである。
 朝(あした)に生れて夕べに死ぬ菌(きのこ)は、晦日(みそか)と朔日(さくじつ)を知らない。朔はついたちのことだよ、萩原朔太郎はたぶんついたち生れなんだろうと言われて、朔太郎なら天才だと崇拝していたからすぐ分った。けい蛄(こ)ハ春秋ヲ知ラズと続くが、このほうはあとかたもなく忘れた。
 いま調べるとけい蛄は蝉だそうだが、むろん少年の私は知らなかった。蝉なら夏うまれて夏死ぬから春秋を知るまい。同じことを違った言葉で言ったのだろう、それなら忘れていいと人の頭はうまく出来ていてたちまち片っぽを忘れたのである。
 それにしても朝に生れて夕べに死ぬ菌があるのだろうか。楚の国の南には八千歳を以て春となし、八千歳を以て秋となす椿の大木があるというからあるのだろう。菌がも一生、椿も一生とそのとき私は合点したのである。
 何年かたって寺田寅彦が、かリに象の一生を百年とする、人の一生を五十年とする、犬の一生を十年とする、象は犬より十倍なが生きだとはいえない、犬の十年は人の五十年、象の百年に当ると、うろおぼえで恐縮だがかれもこれも完結した生涯だというほどのことを書いているのを見て、久々で朝菌は晦朔を知らずを思いだした。はかないとか哀れだというのは当らぬと言っているのだなと察した。
 いま「ゾウの時間ネズミの時間」という題を見て、皆さんかねがね怪しんでいたのに誰も言ってくれないことをよく言ってくれた、いくら図体(ずうたい)が大きくても象も鼠も完結した一生である。かわいそがるには及ばない。まちがっていたらあやまるが、二千年前の古人が言っていることを動物学者が俗耳(ぞくじ)に入りやすく書いてくれたのだなと思って、この正月一本を購っていま読もうとしているところである。

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時の形


(岩城宏之、朝日新聞、2001年8月3日夕刊)

   この春、咽頭の手術のため、ニカ月半入院していた。手術の一週間後には、部屋のバスルームで歯を磨き、髭を剃るようになった。
 それまでは、看護婦さんに顔を拭いてもらったり、ベッドの上でのロブクブクを手伝ってもらっていた。少し回復し、ヨロヨロしながらも、初めてベッドから降りて自力で洗面に行くのはうれしいものだ。
 久しぶりに、わが自慢の最新式電動歯ブラシを、手にするわけである。歯磨き二分を知らせるブザーにピッタリ終えてやろうと張り切ったが、失敗した。
 最初の三日間、タイミングが合わなかった。くやしい。まだほくは三分の二しか済んでいないのだ。
 手術直後の衰弱した身体では、一秒の刻みが一・五倍も間延びしてしまったらしい。体力が回復するにつれ、終物理的一秒に戻ってきた。
 以前、本川達雄さんという方の「ゾウの時間ネズミの時間」という、素晴らしく面白い本を読んだ。
 物理的時間で計れば、ネズミは数年しか生きないが、ゾウは百年近い寿命を持つ。小さい動物では、体内で起こるよろずの現象のテンポが早いのだから、物理的な寿命が短いといったって、一生を生ききった感覚は存外、ゾウもネズミも変わらないのではないか。
 ということで目からウロコの感じだった。物理的な一・五秒を一秒に感じた手術直後のぼくは、ゾウの方になったのだろうか。ネズミの方になったのだろうか。(指揮者)

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出版界の噂


ロングセラーの周辺 (読売、1999年12月1日夕刊)

ゾウの時間ネズミの時間・・・・生物観、心地よくゆさぶる

   集英社のPR誌『青春と読書』(臨時増刊11月25日号)をめくっていたら、「書店さんにきくこんな新書が売ってみたい」という記事が目に留まった。その中に「これまでの新書でベストワンは何ですか」という項目があり、七人のうち二人までが、数ある作品の中から本書を選んでいた。
 我々はどんな動物にも同じ時間が流れていると思い込んできたが、実はそうではなく、動物のサイズが変われば時間も変わるということを、著者は具体的に示す。時間の単位は一つではなく、ゾウにはゾウの、人間には人間の、ネズミにはネズミの時間がある、というわけである。
 執筆を思い立ったのは、沖縄本島北部の小さな島、瀬底島にある琉球大学の臨海実験所で一人、ナマコの研究をしている時だった。
「ナマコにも、人間と同じ時間が流れているのだろうか」と疑問を感じ、調べでみると、時計で計る「物理的時間」のほかに、体のサイズに応じた「生物的時間」があることを米国の研究で知り、新鮮なショックを受けた。この時、こんな大事なことを教えてくれなかったそれまでの教育に怒りを感じ、その怒りをテコにして書き上げたという。
 生物は遺伝子の乗り物に過ぎないと主張するR・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)と同じように、我々の生物観や世界観を心地よく揺さぶる。一千五百点を超す中公新書の中で、『「超」整理法』(野口悠紀雄著、100万部)、『発想法』(川喜田二郎著、,80万部)に次ぐ、発行部数第三位のベストセラーでもある。(譲)92年8月刊、中公新書。47刷70万部。680円。

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