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実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。
第15回 「宇佐八幡宮ご神託事件」
実はJackは首都圏と呼ばれるところに住んでいますが、いつも不思議に思っていたのは東京ってなんて銅像の多いところなんだろうということでした。そりゃあ仙台に伊達政宗公、米沢に上杉鷹山公など各地に著名人の銅像があるのは当たり前なんですけど、それってみんなその地の出身者とかが多いのではないでしょうか?でも、東京にある銅像って言ったら有名なのは上野の西郷隆盛公に代表されるように東京地区の出身者ではない方が多いのです。例えば、有栖川宮とか楠木正成、大村益次郎、吉田松陰などなど。だいたいは中世から近世にかけて活躍された方が多いのですが、何故か東京大手町には「和気清麻呂公」像があって古代の人物の銅像が東京の中心地になんであるんだろうと不思議に思ったものです。
実は、これって和気清麻呂が勇気を出して正統な天皇家の血筋を守ったことから天皇を守るために近世の人達が考えてその銅像をおいたのではないかというのがJackの結論なのですが、その発端となる「宇佐八幡宮ご神託事件」について少々語ってみましょう。
和気清麻呂は、実は岡山県出身の官僚です。活躍期は、奈良時代から平安時代にかけて。桓武天皇に重用されたのですが、その前に日本史の教科書にちょこっとだけ名前が出てきます。それが、宇佐八幡宮ご神託事件。奈良時代末期、時は孝謙天皇(重祚して後に称徳天皇)の時代。孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の子にあたります。ところが、即位当初から幅を利かせていた光明皇后と藤原仲麻呂によって実権を奪われ退位させられてしまいました。光明皇后の死去後、藤原仲麻呂との権力争いとなった孝謙上皇でしたが、光明皇后の祟りか病に臥せってしまいます。この時、病気を治したのが道鏡という僧でした。聖武天皇以来、仏教への帰依が主流となっていたこの時代。道鏡の病気平癒の祈祷が効いたと思った孝謙上皇は、道鏡を信じ重用するようになります。そこで、道鏡を嫌う藤原仲麻呂派の淳仁天皇との対立が生じ、退位を迫る上皇に対して、天皇派の藤原仲麻呂が挙兵。これが日本史の教科書にある恵美押勝(=藤原仲麻呂)の乱なんですね。で、結局上皇派が勝利し、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。そうすると、押さえるものがいなくなった道鏡はやりたい放題。称徳天皇の庇護をよいことに、太政大臣、そして法王へと上り詰めました。これ以上の地位はないはずだったのですが、ここで道鏡はものすごいことを企みます。つまり、当時の一番の位、つまり天皇の位を望んだのです。天皇は、古来から同じ家系のつまり皇族が天皇になっていましたが、道鏡はこのルールをひっくり返し、豊前の宇佐八幡宮から道鏡に天皇を譲れとのご神託があったと言って、天皇の地位を自分に譲るように迫りました。しかし、これは当時では大変なことだったので、本当に宇佐八幡宮からそのようなご神託があったのかどうか確認の勅使が派遣されることになり、この大役をおおせつかったのが和気清麻呂だったのでした。和気清麻呂は当時の最高権力者である道鏡の権力に屈服するのか、それともご神託はなかったと本当のことを報告するのか迷いましたが、結局勇気を出してご神託はなかったと正直に報告してしまいます。この一言によって道鏡は皇位を継承できず、正統な天皇制が守られました。
恐らくこの辺りまでは日本史の教科書にありますよね。ところが、この事件はここで終わっていないのです。
皇位は継承できずとも、政治の実権は道鏡にあり、彼はいまだに称徳天皇の寵愛を受けていました。よって、この企みごとを粉砕した和気清麻呂に対して恨みを抱いていました。従って、道鏡は逆襲に出ます。なんと、和気清麻呂は左遷され、さらに逆鱗に触れた称徳天皇によって改名の罰を与えられてしまいます。和気清麻呂の名前は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、姉の広虫も同じく別部広虫売(ひろむしめ)と改名させられ都からは程遠い鹿児島へと行かされたのでした。
しばらく後、称徳天皇が没すると後ろ盾を失った道鏡は下野国の別当へと左遷され、その支配は終焉を迎えます。新しい天皇の即位とともに、和気清麻呂の名誉回復が行われ、改名も元に戻りました。再び京に呼び寄せられた和気清麻呂は桓武天皇の時代になってその誠実さから桓武天皇に重用されるようになり、平安京の建設に関わるなどその実務に実力を発揮したのでした。