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実は最近この試験に出ない日本史・世界史のコーナーが何故か人気のあることに気づきました。ということで、今年はこちらのトピックスを重点的に更新して行こうということにしました。よろしくお願いします。

第16回 「ご恩と奉公 その1」

日本史のノートをとっていると出てくること、それは、承久の乱が1221年に起こり、幕府方が勝利したということぐらいでしょうか?この乱が何故起こったのかということと、何故幕府軍が勝てたのかということはあまり触れられていないような気がします。ということで、今日は「承久の乱」についておさらいしてみたいと思います。

まず、ことの発端は鎌倉幕府設立者の源頼朝が1199年に亡くなったことから始まります。頼朝は、身内の義経、範頼を排除し、武士の合議制で鎌倉幕府を設立したわけですが、この1番の要が1189年12月の橋供養の際の落馬事故がもとであっけなく亡くなってしまいました。源氏の嫡流の頼家が後を継ぎましたが、頼家自身には頼朝のように鎌倉幕府に従う武士全員を従える器量はありませんでした。するとそこに当然権力争いが起こります。まずは梶原景時。義経を讒言で死に追いやったと言われている大物も三浦・和田連合軍に逆に追い詰められて失脚。1200年に殺されてしまいました。続いて、1203年に頼家の妻の実家である比企能員。頼家の後ろ盾として権力を欲するも北条氏にはかなわず。この事件がもとで頼家も幽閉、殺害され、弟の実朝が将軍となりました。
そして、1205年、今度は武勇で有名だった畠山重忠(確か奥多摩の御嶽神社に銅像があったはず)が北条時政、義時親子のターゲットになってあえなく討死。北条氏は着々と政敵を倒し頼朝の妻政子の実家ということで権力を握ろうとしました。結局最後に残った和田、三浦の有力所も和田氏が1213年の和田合戦で滅亡。三浦氏も1247年に宝治合戦で排除され、その後は北条氏が執権として幕府の実験を握ることになりました。(これが「他氏排斥」)
また、源氏の嫡流も北条義時に騙された頼家の子、公暁が実朝を殺害したことで、公暁もろとも葬り去られ、これまた3代で絶えてしまいます。
一方、京都では安徳天皇の即位後に後白河法皇によって対立する天皇に選ばれて在位していた後鳥羽天皇が譲位し、上皇として実権を握っていました。
後鳥羽上皇は、今までの天皇とは違い文武両道に優れた上皇であったため、保元・平治の乱以来の中央集権国家の衰退の盛り返しを狙い、武家の頼朝死後の権力争いに期を見出し、嫡流将軍亡き後の勢力争いによる鎌倉幕府の混乱に乗じ、幕府衰退を狙って仕掛けた起こるべくして起こった「乱」ということになります。

1221年5月14日京都守護伊賀光季を討った上皇は、続いて全国に北条義時追討の院宣を発しました。
ところが、幕府方は、上皇の反乱に動揺し御家人は上皇に弓を引くのをためらってしまいます。

「吾妻鏡」によると、北条政子はこの時御家人達を招き、「みんな心を一つにしてよく聞け。今はなき頼朝公が鎌倉幕府を開いて後、御家人達は戴いた官位や恩賞のことを考えると、その御恩は山よりも高く海よりも深い。この御恩に感謝して報いようという志がどうして浅いことがあろうか。今逆臣という汚名を着せられ、北条義時に誤った追討命令が下された。名誉を重んずる者は、早く(朝廷方に味方した)藤原秀康、三浦胤義らを討ちとり、三代将軍実朝のあとを守るべきである。ただし、院の方へ味方したい者は、ただ今申し出よ」と演説します。集まった武士たちはこの演説に感涙し、皆が結束。命をかけて恩に報いようとなり、一枚岩で朝廷に対した結果勝利を収めるに至ります。

結果、後鳥羽上皇→隠岐へ配流。後鳥羽上皇の息子順徳上皇→佐渡へ配流。承久の乱に積極的に加わっていなかった土御門上皇は、自ら望んで土佐へ配流(後に阿波に移される)という3上皇の配流が決定。この時の天皇だった仲恭天皇はわずか4歳で廃位、後堀河天皇が即位することになりました。で、朝廷の監視役として六波羅探題が設置されました。北方、南方と2職があり、北方の方が格が高く北条家が代々就任することになります。初代は、北方が北条泰時と南方が北条時房。

北条政子の演説が御家人達の心を打ったというのもありますが、「ご恩(土地などの報酬)」と「奉公(功績)」という今の会社のようなシステムが出来上がって来た結果、今までの一族の血縁中心の世の中から、活躍したらたくさんの褒美をもらえるという、いわば土地を仲介にしたシステマティックな結束を可能とする世の中に武家政治が変わってきたということもいえると思います。

尚、「一生懸命」という言葉がありますが、この言葉の語源とも言われますが、同義語で「一所懸命」という言葉があります。これは、この鎌倉時代の言葉で「1つの所(鎌倉幕府)に命を懸ける」というところから来ています。

次回は、第2弾として、御家人の立場から「ご恩」と「奉公」を描いた「鉢の木物語」を紹介したいと思います。

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