大木 茂 「北辺の機関車たち」 から |
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一部は「汽罐車 よみがえる鉄路の記憶」にて採録されています。 |
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宗谷本線 幌延 1970年3月2日 | |||
稚内から60km、厳冬のサロベツ原野を駆け抜けてきた上り急行「利尻」の先頭にたつC55。この時は仲間数人と幌延駅前の小さな旅館に泊まり、夜間撮影を狙った。ここ幌延や音威子府は貨物列車の組成入換えのために構内が広く、照明も明るいのでいつもは夜遅くまで撮影していたのだが、この時ばかりは風雪が強かったことと、久し振りに仲間が集合したことも有り、早めに切り上げて宿で「宴会」をしてしまった。オガ炭ストーブを囲み、氷下魚を焼き、安ウィスキーを飲んでいる写真が1枚残っている。 |
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函館本線 小沢 下り急行「ニセコ3号」 1971年3月12日 | |||
C62重連の夜間撮影では「倶知安の夜」が有名になりすぎてしまったので、別の場所を探していたところ隣駅小沢を見つけた。「ニセコ3号」に乗りロケハンをしたのだが、構内も広く照明も明るかったので、「これは良いぞ」と目星を付けたのだ。後日、行ってみると暗くなっても照明は点かない。駅員さんに聞いてみると普段は点灯していないとのこと。「写真を撮りたいのですが…」と恐る恐る尋ねてみると、あっさりとスイッチオン。停車時間は短かったが、新しいアングルを見つけたこと、駅員さんのご親切が嬉しかった。 |
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石北本線 生田原 1971年3月14日 | |||
今と違って鉄道が陸上輸送の主役だった時代、夜を徹して貨物列車は本線上を走っていた。常紋峠を前に生田原は補助機関車の中継地として忙しかった。夜明け前に常紋から戻ってきた補機が転車台に乗って向きを換えられる。日の出前の厳しい寒さの中での作業。やがて、辺りが明るくなる頃この9600は再び常紋へと向かって出発する。 |
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釧網本線 浜小清水 1968年3月3日 | |||
垂れ込めた雲海から太陽が顔を出すと、凍てついた流氷の街もようやく朝を迎える。前夜、常紋から移動してきて最終列車で浜小清水駅に到着。駅員も既に寝てしまっていて、がら〜んとした待合室の片隅に寝袋を広げて一夜の夢を結ぶ。とは言っても、持っているものありったけを着込んで寝袋に入るのだが、木のベンチからの冷気と-20℃にもなろう気温で安眠など出来るはずはない。まんじりともせず過した一夜、朝の太陽の暖かさは本当に嬉しかった。 |
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釧網本線 北浜 1970年2月24日 | |||
この写真は海上に拡がる流氷の上に乗って撮ったもの。この時、仲間と流氷は果たして塩からいのかどうかが話題になった。「海水が凍ったのだから塩からい」「いや凍るのは純水だから味はないのでは」と意見が分かれた。ためしに、「流氷あめ」のような(そう言う土産物が有ったのだが)氷のかけらを口に入れてみると、塩からい味、海水ほどではなかったが苦味を感じた。きっと純水が凍る合間に塩分が閉じこめられたのではないだろうか。列車を待つ合間、誰もがいろいろな想い出があるに違いない。 |
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函館本線 鹿部 1968年2月21日 | |||
「鹿部は良いぞ」とこれもH氏に勧められて行った所。「駅を出て函館側に歩くと築堤があって足下に街が拡がっている」との情報で、夜行列車を降りて朝、鹿部の駅に到着。駅前は町から離れているので何もない。腹が減っているが築堤まで行けば街に降りて食事は出来るだろう、と言うことで出発した。築堤まで来るが小雪で視界は不良だ。サーッと視界がはれて見えたのは、遥か彼方に有る街並み。確かに”足下”だけど、とてもじゃないが歩いていける距離ではなかった。朝昼抜きで一日歩き回った苦い想い出。この写真は後日、”街側”から狙ったものだ。200mmの望遠でこのサイズ、街までの遠さがお判りいただけるはずだ。 |
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石北本線 常紋信号場 1971年3月13日 | |||
574列車は9600が前補機となり、9600+D51の重連となる。交換する3573列車も同じく9600+D51の重連なので、重連どうしの顔合わせを撮ろうと狙ってみた。本務機のD51から降りてきた乗務員は9600の乗務員を誘って駅舎に消えていく。そう言えばこの574列車は常紋信号場で4本の列車を待避するので1時間半も停車している。ちょうど昼時だし、駅舎内でゆっくりと昼飯を食べに行ったに違いない。忙中閑有り。行き交う列車本数も多く忙しかったが、のんびりとした時間も流れていた。 |
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宗谷本線 幌延 1970年3月3日 | |||
前夜「利尻」の夜間撮影をして宿に泊まり、朝から羽幌線に入ろうと思ったが、風雪が強まって海岸沿いを走る羽幌線は不通になり9時を過ぎても列車運転の見通しは立たなかった。しかし、宗谷本線側は所定で運転している。322列車を待っていると、大きなスポーク動輪に新雪を巻きこんだC55が到着した。 |
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宗谷本線 稚内機関区 1970年3月3日 | |||
幌延から羽幌線に入れないので、稚内機関区に行ってみることにした。北海道の機関庫では、入り口に扉が設置され厳冬期にはぴたりと閉じられている。保温のためと雪の侵入を防ぐためなのだろう。中は暗くなってしまうのだが、その分あちこちから漏れる柔らかな光が辺りを包み、幻想的な雰囲気を醸しだしていた。 |
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宗谷本線 豊富 1966年4月5日 | |||
こうして見ると利尻富士は北の海にぽっかりと浮かんだ島だとは思えない。サロベツ原野と利尻富士の組み合わせを求めてあちこち探した末に見つけたのがこの場所、豊富近くの丘の上だ。321列車が白煙を残して北へ向かう頃、折しも最果ての夕日が利尻富士の肩に沈もうとしていた。この写真は、太陽の沈む位置と時間が程良く列車の通過時間とシンクロしてくれたので良かったのだが。いつもそううまく行くわけではない。ある時、風景写真家を羨ましく思ったことがある。列車を組み合わせる必要がないのだから、最適時間にシャッターが切れる、何と楽なのだろうと…。しかし、後日野生動物写真を撮る機会があり、巣穴の前でじっと何日も待つ羽目になった。その時は鉄道写真家が羨ましかった。時間が来れば列車は来てくれるのだから…。 |
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石北本線 常紋信号場 1969年3月4日 |
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基本的には客扱いをしない信号場なので長いプラットホームはない。駅舎を出た助役さんは線路を歩き機関士に通票を渡す。「ボーッ、ボーッ」前補機、本務機の汽笛がニ声、山間にこだます。スイッチバックの引き上げ線に向けて後退。再びニ声。数回転、排気音が聞こえたが、後は下り坂を転げ落ちて行った。朝の厳しい寒さも和らいだ昼、静かな山あいに静けさが拡がる。 |
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石北本線 留辺蕊 1970年2月23日 |
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前夜は温根湯温泉のユースホステルに宿泊。おひつのお替わりをして腹いっぱいご飯を食べ、久し振りに柔らかな布団で寝た。朝は期待通りの快晴となったが….厳しい冷え込みだ。朝の撮影後、宿で作ってくれたおにぎりの包みを広げると、見る間に凍ってしまった。シャリシャリのご飯の味はない。留辺蕊の駅に行くがあたりは霧のような冷気に包まれていて冷凍庫の中のよう。零下28度、我々の体験した最低気温になった。 |
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石北本線 生田原 1969年3月4日 |
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ほとんどの貨物列車は生田原で常紋峠に向けて補機が連結される。ちょっと変ったアングルで撮りたいと思って貨車の脇に寝そべって待つ。いつもの連結作業もまた違って見えた。ホームから下に降りることもできない現在では考えられないことだが、自己責任で比較的自由に撮れたあの時代が、今となってなつかしく、そして大切なものを失ってしまった思いが強い。 |
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石北本線 528列車 1971年3月15日 |
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客車と貨車を一緒に連結した「混合列車」では、途中駅での貨車の入換え作業の都合で客車は後部に連結される。機関車から蒸気を供給することができず、暖房用にストーブが車内に備えられ、時々車掌さんが火の具合を見て回る。スルメを焼くために観光用に用意したわけではないのだ。あぁ…この女子高生も…還暦前のおばさんになっているのだろうなぁ。 |
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函館本線 長万部 1971年3月25日 |
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C62重連で運転されていた「ていね」「ニセコ3号」。末期は編成も短くなり多少楽になってはいたが、それにしても大型高速機の能力を一杯に使った凄まじい仕業だった。長万部から小樽まで3つの大きな峠を、息つく間もなく駆け抜ける。現代の労働条件ではとうてい許されないような過酷な状況の中で、機関車や線路を守り、運転していた「職人」達がいたことを忘れないでいたい。 |
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宗谷本線 幌延 1969年2月24日 |
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回送の機関車が連結されて重連となった。幌延や音威子府は貨物列車の組み替え、入換え作業が多いので構内も広く照明も明るかった。特に雪の季節は手持ちで自由なアングルで撮影が可能だった。Tri-XをKonidol Superで20℃、12分の増感現像、ASA1600ぐらいの感度。このカットはしゃがみ込んで身体を安定させ、50mm標準レンズで、F2.8、1/8秒。夜遅くまで撮影を楽しんでいた。 |
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函館本線 倶知安 1969年2月25日 |
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降り積む雪の中、C62重連「ていね」が到着した。スノウプラウでかき寄せられた雪が、この先の峠道の厳しさを暗示している。短い停車時間で火床整理、給水を済ませた。罐水をたっぷり持ち、蒸気圧を上げて発車して行くが、小樽まであと60km、大きな峠を二つ越えて行かねばならない。 |
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石北本線 常紋信号場 1969年3月4日 |
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信号場の全景を撮ろうと背後の山に登った。さらさらの雪に足を取られ、斜面を登るのは容易ではない。長靴で踏み込み、膝で雪を固めて少しずつ高度を稼ぐ。悪戦苦闘、短い距離だが思ったよりも時間はかかってしまった。模型のレイアウトにしたくなるような山間の小さな信号場だ。 |
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宗谷本線 音威子府 1970年2月27日 |
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旭川-稚内間は260km。急行「利尻」、321、322列車の機関車C55は通しで運用されていたが、乗務員は中間地点130kmの音威子府で交代していた。10分以上の比較的長い停車時間で、機関車は客車から切り離されて給水、石炭かき寄せ作業が行われる。機関士は足回りの点検、助士は火床整理に忙しく、旭川、稚内へ、それぞれ3、4時間の仕業に備えていた。 |
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宗谷本線 稚内機関区 1970年3月3日 |
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9番目の稚内機関区の9600の写真の前のカット、こんな扉が付いていた。当時、北の機関区の機関車たちにも補助前照灯の取り付けが始まっていたのだが、このカマはまだシールドビームをつけられず、小型の150Wの前照灯を持ちバランスの良い顔立ちをしていた。 |