先端人(日本経済新聞、1993年、1月18日)

     科学とは世界観なり   
 
異例の売れ行きの科学書を出版 
 
ユニークな視点で生物界を分析

 昨年出版した「ゾウの時間ネズミの時間ーサイズの生物学」が、科学書としては異例の十万部を超えるベストセラーになった。 
 昔大氷河時代、島に住んでいたゾウはどんどん小さくなり、ついに子牛くらいの大きさになってしまったことが化石調査で分かっている。逆に島のネズミやウサギは大きくなった。極端に大きいか小さいことは敵から逃れたり身を守るためには都合がいいが、他の点では不利なことが多い。島には一般に天敵が少ないので極端に大きくなったり小さくなる必要がない。 
 島国の日本の場合、国民の平均レベルは高いが天才は現れにくいというのも、この「島の法則」の表れかもしれないという。生物界の解釈が人間社会の独特の分析になっているところが関心を呼んでいる。 
 「科学とは自分の世界観を作ること」が持論。自説の展開より事実の発見を重んじる日本の科学界では異色の存在だ。本も学者仲間からは「余計な解釈はせずに事実だけを書くべき」と批判されたが「事実の羅列だけでは科学にならない」と意に介さない 
 専門はナマコやヒトデの体の構造研究だが目はもっと外に向いている。「ナマコだけを見ていたのではしょせんナマコに過ぎない。ナマコをカギに生物を考えれば面白くなる」。本川流の科学観だ。 
 本の題名は「ゾウやネズミなど動物ことに寿命は達うが、一生に打つ心臓の鼓動数は一定。だから一生の長さの感覚はどの動物も同じ」というユニークな見方に由来する。「自分なりの理解で世界を見通したい」という。宮城県出身、四十四歳。



Listに戻る

ひと(朝日新聞、1993年、7月21日)


人間とは ずいぶん特殊な生き物なのですね
45歳。「僕はナマケモノではないが、遊び人。学問はあそびなんですね」

  去年、『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)という本を書いて評判を呼んだ教授の次の本、今度出した『歌う生物学』(講談杜)は録音テープつきだ。電子オルガンの伴奏、ハイバリトンの歌声。教授は生物学のシンガー・ソングライターなのである。
 二年前までいた琉球大学での講義で、一単元終わるごとに黒板に歌詞を書いて歌った。大学の講義で歌ですか。
 「そう、大事なことは繰り返し歌う。僕、結構これまじめな教育論だと思ってる」
 たとえば「一生のうた」で教授は歌う。「ゾウさんもネコもネズミも心臓はドッキンドツキンドツキンと十五億回打って止まる」
 一生の呼吸数は三億回、エネルギーの消費量はその体重に比例する。それが動物というものの基本デザインだ。それで人間の寿命を計算すれば三十年くらい。するとその倍以上に寿命の延びた今の日本人は、自然の原則を無視した存在ということですか。
 「そう、墓本的に動物は生殖活動が終われは親は死ぬ。脳が作り出す文明によって、なおかつ親が生息するということは、ある意昧では将来子孫がとるべき分のエサ、エネルギーを食いつぶしているということです。うしろめたいことなのです」
 「それに文明人は、車や電話やコンピューターという文明の利器でエネルギーをたくさん使っては時間を短くしている。しかし体は元のまま。そのテンポのずれが、ストレスとなって表れている」
 人間、身の丈を知り、ほどほどに生きるべし。東大助手を経て、わざわざ南の島で十三年間を過ごしてじっくりと考えてきた教授の、これが生き物としての人間論である。
 で、東工大でも歌っているんですか。「いえ、ここは学生がまじめでしょ。ちょっとね、オズオズとね」(降幡賢一)

Listに戻る

日本の四十代ひと(日経1994年、8月8日)


多忙な現代人の時間価格問う

本川の著した『ゾウの時間ネズミの時間』は、出版して二年で四十八万部も売れた。これには当人が驚いた。理科系の本がベストセラーになるなんて、日本も、まんざら捨てたものでもない。
 「物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか」。一般教養書の体だが、こういう問題意識が、 多忙な現代人の心のひだに触れたのだ。
 その『サイズの生物学』によれば、日本人の標準代謝量はゾウなみで、人口密度でみればウサギ小屋ならぬネズミ小屋暮らし。自然なサイズからかけ離れた存在が幸せであろうはずがない。
 エネルギーを使えば使うほど、時間はどんどん速くなるという関係式がある。
 「それは、まさに現代社会ですが、ヒトの心臓の鼓動は縄文人と変わらない。より便利にっていう努力が実は体を不幸に陥れている」。バブルがはじけて、人間の生き方も見直される昨今「もっとドライに自然を見ることから、いろいろ学べると皆が思ったからでしょう」。
 専門はナマコ。「ノテーツと転がっている彼らの時間が我々と同じとは思えなかった」ところに発想の原点があった。
 生物学を志望した動機はやや屈折する。
 「高度成長期に一人ぐらいお役に立つことはしないのがいてもいい」。一歩、ひいて見ている少年だった。バスケットボールをやっても一緒にボールを追わない。パスさえ来ればノーマークだが、たまのパスでは「ドジったりして」。
 省エネ、自然志向を説くだけあって、家にはテレビも新聞も車もない。夜十時には家族そろって寝てしまう。授業中に歌いだすのも、まあ変わっている。「教養部で立派な講義をしても、学生がついてこない。要点を歌にすれば、顔ぐらい覚えてくれるだろうから」。で、「ゾウさんもネコも・ネズミも心臓はドッキンドッキンドッキンと二十億回打って止まる」。(小島英煕)

Listに戻る

Sunday Nikkei知の冒険
(聞き手は編集委員小島英煕氏、1997年6月15日)


ナマコ的生き方の勧め

ナマコは省エネ型の優れた生物である。それに引き換え現代人は、エネルギーを大量に消費して、生物のサイズに合わない生活をあくせく送っている。限界は近い。高齢化社会の決め手はナマコ的生き方である。

小島
ナマコの酢の物でちょっと一杯。うまいですが、これ、ずいぶん変わった生き物だそうですね。
本川
 ナマコはウニやヒトヂの仲間で棘皮(きょくひ)動物です。マナマコを生で食べますし、内臓はこのわたになる。中国料理では干しナマコを使う。うまいものですね。だから、どんどん食われてしまうかというと、そうでもない。サポニンという、魚には毒として働くものがあるし、皮のキャッチ結合組織が緊急時には硬くなったり、軟らかくなったりして身を守るからです。
小島
 皮の硬さを変えるんですか。
本川
 シカクナマコは、夜や嵐の日は岩の中に隠れます。皮を軟らかくして狭いすき間から入り込んで硬くなれば、もうびくともしない。この皮はゴリゴリもんだりギュッとつまむと融(と)ける。岩に隠れても、魚が食いついて引きずり出される恐れがあるんですが、かみつかれた部分が融ければ、とっかかりがなくなって助かるわけです。またかみつかれた部分を融かし穴をあけて腸を吐き出し、魚が食べてる間に逃げる。腸は一、二週間で再生します。フクロナマコという砂にもぐって口のまわりの触手を砂の外に伸ばして小さな有機物を食べているナマコがいるんですが、これを魚が食べようと触手にかみつくと、ナマコは口の下の首の部分を軟らかくして触手と首、腸を体から切り離す。魚がそれを食べてる間に砂の奥深く隠れるんです。
小島
 世界で何種類いますか?
本川
 ざっと九百種類かな。ナマコとの付き合いはかれこれ二十年。瀬底島という沖縄の小さな島に、当時、研究員がたった一人の臨海実験所があり、そこで研究していました。初めて島に行った日に、ちょうど引き潮で足の踏み場もないくらい岸にナマコがいるのにびっくりした。人が近づいても逃げやしない。これは一体どういう生き物なんだって不思議に思いました。
小島
そういうナマコを見て、時間の流れが違うと思われた。
本川
 それと南国の悠久の時間の流れ。のったりとしているナマコと付き合っていると、とても時間の流れが、僕らみたいに忙しい生き物と同じだとは思えなかった。
小島
 時間は一様、というのが前提でしよう。
本川
 もちろん、時計で測るものはそうですね。そしてそれ以外の時間は普通は認められていません。しかし、時間は生物によって違うという実感が頭にこびりついていた時、心臓の一拍の時間が体の大きさによって違うという論文に出合って確信しました。さらに生物だけでなく文化の時間の違いもあるんじゃないか、と思いついた。
小島
 理科系の考えではありません。
本川
おや、おっしゃいますね。今の世の中、理科系の考え方をするのが正しいということになっています。理科系、端的にいえば物理学っていうのは、物の見方は唯一、一本の物差しの上にのせて定量化できるものが正しくて、それから外れるものは、あやしいってことになる。日本人は無宗教というけれど、実は物理教徒です。世の中のものはすべて同質で違いは量だけだと考える。たとえば教育だって人間は一人一人違うのに、偏差値という一つのものさしだけで数量化してしまう。その最たるものがお金です。お金という一つの物差しですべて数量化する。世の中万事お金ですから、我々みんなが物理教徒なんですね。すると一人一人違った顔をしてかけがえのない違った「生」を生きている我々個人の立つ瀬がない。
小島
 豊かさの見方も一つ。
本川
 物がいっぱいある、早く出来る、量を増やせぱ幸せだと。しかし、エネルギーはどんどんなくなって、環境汚染も進んでいる。ところでナマコは砂を食って生きています。栄養価がそんなにないもので生きていけるというのは、あんまりエネルギーを使わないからです。現代人、ことに都会人は、一生懸命、動き回って生きている。動き回ればえさは取れるし、もうかるだろうが、そのためにはたくさん食わなければならない。それには、ますます動き回らねばならない、と、これでは堂々巡りです。
小島
 砂をかむような幸せ?
本川
自分の住んでいる砂を食って生きていけるなんて、お菓子の家に住む夢の実現ですよ。ナマコはあまり動かずにノテトーッとして省エネで倹約してやってきたら、世の中が天国になっちゃった。
小島
 ノテーッとしていると、エネルギーも使わず時間もゆっくり。
本川
 そう。動物の時間はエネルギーと関係すると考えています。体の大きい動物ほど時間がゆっくりです。哺乳(ほにゅう)類の心臓が一回ドキンと打つ時間は体重の四分の一乗に比例します。ゾウは三秒でハツカネズミは0・一秒。寿命もそうで、大きい動物ほど心臓はゆっくり打ち、長生きをする。しかし体重当たりのエネルギー消費量は体重の四分の一乗に反比例するから、心臓が一回打つ間にゾウもネズミも同じ量のエネルギーを使う。一生という時間の間でもそうです。つまりエネルギーをたくさん使って速く生きる奴は早く死ぬ。どっちがいいかは分かりません。
小島
 充実感は別ですから。
本川
 動物ではエネルギーを使えば使うぼど時間が速く進むんです。これは私たちの一生の時間にもあてはまると思っています。体重当たりのエネルギー消費量は、子供の方が多くて年とともに減ります。だから子供の時間は速い。そこで一日二十四時間という物理的な時間を考えると、その間に子供はたくさんいろんなことをやっている。年を取れば何もしなくなる。子供の一日は当然、長く感じられるし、老人の一日は早くすぎることになる。
小島
 高齢化杜会が深刻ですね。
本川
 私は老いの時間は若い時とは違うのだと割り切って考えたらどうかと思っています。若い時には忙しく働いて、子供を作って、ということは生物としてやらなければならない。でも、ある年齢からは、ゆったりとした違う「生」を生きる。野生では年老いた動物は見られません。肉体が衰えたら食われたり病原菌にやられて死ぬ。今、我々は長生きになったのですが、生物学的に考えれば、生殖活動が終わった以降の生は、普通の意味の生き物ではなくなるんです。だからこそ、もっとゆったりした違った時間を老後に持てばいいと思うんですね。  現在、日本人は体が必要とする四十倍ものエネルギーを使っています。車、飛行機、コンピューターなどに消費している。速く出来て便利だからです。つまり、社会生活の時間も、エネルギーを使えば速くなるんです。だから省エネして時間をゆっくりにしてやれば、資源の枯渇も環境問題も解決できるんですね。ゆったりしたナマコの生き方もせわしない現代人の生き方も一つの戦略なんですが、人類の速さを追い求めるやり方は限界に来ています。みんなナマコになればいいんですよ。
Listに戻る

私のいる風景 (読売新聞夕刊1997年6月21日)


時間・・・ストレス当然の現代人・・・幸せにつながらない速さ

七年前、本川達雄さんは長年住み慣れた沖縄から東京へ転勤した。久しぶりに通勤電車に揺られ、横浜市内の大学宿舎から東京・目黒区大岡山-の東工大キャンパスまで通うようになった。
 沖縄時代とは違い、人波にもまれながら約一時間の通勤。しかも、以前に比べると実質的に半分の広さの3Kの宿舎に、親子五人が荷物に埋もれ、折り重なるようにして眠る毎日。疲れ果てた本川さんは「これはまともな人間のする生活じゃないな」と思い、憂さ晴らしに「サイズの生物学」をもとにして都会の生活がどのくらいおかしなものなのかを計算してみた。
 動物の生息密度や行動圏の広さは体の大きさによってほぼ決まってくる。ヒトの人口密度と行動圏の広さを計算すると、実際の東京の人口密度は哺乳類の平均値の約四千倍にあたる五千五百人/平方キロメートルで、小さくて数の多いネズミのそれに匹敵する高密度。一方、行動圏は平均的なサラリーマンの場合では巨大なゾウと同じ約千百平方キロメートルと出た。
 ネズミ並みの暮らしをしながら、ゾウ並みの距離を移動する。これが都会人のライフスダイルだと分かって、「なるほどストレスがあって当然」と納得した。
 動物は体のサイズに応じて、その“時間感覚”も変わるという「サイズの生物学」を知ったのは、生物学を学び始めてから十年以上がたったころ。琉球大学に助教授として赴任し、沖縄本島の北部に隣接する瀬底(せそこ)島にある大学の臨海実験所で一人、ナマコの研究をしていた時代だった。
 「海の中でただ寝ているだけに見えるナマコにも、人間と同じ時間が流れているのだろうか。もしかしたら生き物によって時間が違うのではないか」。そうした疑問を感じていた時、時計で計る「物理的時間」のほかに、動物の体のサイズに応じた「生物的時間」のあることをアメリカの研究者の著書などを通じて知り、新鮮な驚きを感じた。その「サイズの生物学」を自分なりに理解し解説したのが、出版からこれまでの五年間で四十四版、六十四万部のベストセラーになっている『ゾウの時間ネズミ時間』(中公新書)である。
 仙台に生まれ育った本川さんは、小さいころ、一人でぼんやりと夕日を見ているのが好きな少年だった。団塊の世代に属し、高度成長期の最後にあたる一九六七年に大学へ入学。理科系が得意な人は工学部に、文科系が好きな人は経済学部か法学部に進学するのが一般的だった当時、子どものころから周りの人と同じことをしたくなかったという本川さんは、「一人ぐらい世の中の役に立たないことをする人間がいてもいいのではないか」と考え、東大理学部生物学科に進んだ。恩師がウニの研究者だったこともあり、同じ棘皮動物の仲間であるナマコを選び、現在も研究を続けている。
 「生物的時間」の視点を通して社会をながめると、エネルギー間題や高齢化杜会など、現代が抱えている多くの問題が、実は時間にかかわる問題としてとらえられることが分かってきた。
「恒温動物は変温動物に比べ十倍以上のエネルギーを使って体温を一定に保っていますが、私たち人間はさらに膨大なエネルギーを使って高速に、正確にものごとを行えるようにしている。体の時間ほ昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが現代です。ストレスの最大の原因は、体の時間と社会の時間の極端なギャツプにあるのではないでしょうか」
 時間に追われ、ストレスを抱え、ストレスにさらされ続ける現代人。何が本当に幸せなのかを考えるたびに、本川さんはあの日の出来事を思い出す。
・・・・・・ある番、瀬底島の浜辺を散歩していると、漁師が一人で泡盛を飲んでいた。そばを通り過ぎようとした時、その漁師が茶碗を差し出し、沖縄方言でぽつりとこう言った。「借金していい船を買えば、もうかるのは分かっている。でも、そんなことをすれば、こうして飲む泡盛の味がまずくなる」と。
「より速く便利であれば幸せだというのが現代の価値観ですが、はたして、より速いことは、より幸せなことにつながるのでしょうか。私たちは結局、お金に支配されていると同時に、時間の支配下にもあるのです。本当の幸せとは何かを、いま考え直してみる必要があるのではないでしょうか」。言葉をかみしめるように本川さんはそう語る。 (文・伊藤譲治)

Listに戻る

対話・知のクロスロード
(吉永良正氏によるインタビュー、「大学への数学」1993年8月号)


役に立たない"虚学"を志す

吉永
ともかく『ゾウの時間ネズミの時間」がすごい人気で,日本人が書いた科学啓蒙書としては前代未聞のベストセラーといわれています.本誌の読者の中にも,こ の本を読んで感動した人は多いはずで,「著者はいったいどんな人なんだろう」と興味を持った人も少なくないと思うんです.そこで,まず話の順序として,先 生が生物学を志された動機からお伺いできますか?
本川
小学校の頃は実は音楽家になりたかったんです.随分一所懸命にバイオリンをやっていたんですが,小学校5年生のときでしたかね.子どものバイオリン から大人のバイオリンに買い換えなければならなくなった.そのとき,オヤジに「もうおまえも勉強せい.いっまでもちゃらちゃらバイオリンばかり奏いている のはみっともいいことではない」といわれまして,「なるほど,そうかもしれない」と思って,音楽家への夢はあきらめました.オヤジから「勉強せい」といわ れたのは,それが最初で最後でしたね.音楽以外では,ともかく学者になって,学問をやりたかった.それも,世の中の役に立っものより,役にたたない学問を やりたかった."実学"ではなく,いわば"虚学"ですね.
吉永
学部でいうと,法学部や工学部でなく,文学部や理学部ですか.
本川
そう,文学部か理学部のどちらかだろうと.まわりの人間は,ぼくが文学部に行くんじゃないかと思っていたみたいですね.ポケットにはいつも詩集や何 かが入っていたりしていましたから.でも,あの当時の文士なんてのはみんな自己破滅型でしたからね,文学部というと自己破滅型の人間でないと行けないと思 いこんでしまっていた.私はマトモな人間なので(笑),高校2年になって理系と文系に分かれるとき,理系のクラスヘ行ったわけです.文系でなく理系を選ん だもう1つの理由は,文学にしても社会科学にしてもみんなそうですけど,人間のことを理解するのに人間だけを見ているのでは,見方が狭いような気がしたと いうこともあります.情緒に流されたり,あるいは人間の頭の中のことをいじくるだけで,それで本当に世界が見えるのか,という疑問はその頃から持っていま した.もう少し情緒的でない"虚学"をやりたかった.
吉永
理学部の中でも,物理学や数学ではなく,生物学へ行かれたのは,何か理由があったのですか?
本川
物理も数学も嫌いじゃなかった.ただ,そうした学問の中には目的や価値がどこにもないような気がしてああいう世界の中だけにのめりこむ気はあまりし なかったんです.素粒子自体に価値があるわけではないですからね.化学は好きだった時期があった.いまでも憶えているのは,小学校低学年の頃に「子供の化 学』という本を読んだら,酸素は手が2本あってといったことが書いてあった.あれがエラく気に入ったんですが,学校では沈澱の色は白,なんて話ばかりで しょう.何だかつまらなくなった.そこで残った理科といえば生物学ですから,それをやろうと決めて,東大理IIを受けたんです.
吉永
理科は生物と化学で受験されたわけですね.
本川
いや,生物はもちろんとりましたが,もう1教科は物理で受けました.受験の化学なんて,完全な暗記科目ですからね.それよりも物理をちゃんとやっておいたほうがいいと思った.

ファインマン・ウェーパー・プラトン

吉永
『ゾウの時間ネズミの時間』にも数式がたくさん出て来ますが,大学でも物理や数学はかなりなさった?
本川
教養の頃は,好きでしたから物理の本もよく読みました、ファインマンの物理学を読んだときは,大変感激しましたね.英語で3巻あるんですが,あれを 読んで物理の世界とはこういうものかということが,非常によくわかった.また,英語がいいんです.エラく英語がわかっちゃう.こんなに英語はわかりいいも のかと思ってビックリしました.物理で他に印象に残っている本というと,朝永さんの『量子力学』もいい本でしたね.
吉永
随分いろいろな本を読まれたのですね.
本川
私は教養人ですから.自分の専門よりは,実は他の分野の本のほうをたくさん読んだ.人文系のものや哲学も好きでしたね.マックス・ウェーバーとか, プラトンの対話篇なんかも愛読していた.ブラトンは高1のときに読んで,言葉というものはこういうふうに使うのかと感激したことを憶えています、自然科学 には,言葉をいかに使うかというところがあって,論理というものをつくっていくのに,プラトンの対話篇はすごく参考になるんです.大学の頃,電車に乗らず に長い時間ポケーっと歩きながら,ソクラテスの口調をまねていろんなことを頭の中で組み立ててみる.そんなことはよくやっていましたね.でも,本を読み始 めると,きりがなくていっぱい読む.ほっておけば四六時中いろんな本を読んでしまうたちですから,25歳のとき決意して35歳までの10年間,“断書”と いうのをやりました.専門以外の本は読まない.
吉永
辛くなかったですか?
本川
私は禁欲的なんです(笑).
吉永
生物学へ進む人といえば,マックス・ウェーバやプラトンというよりもむしろ,昆虫マニアとか,そんなイメージがありますが,先生も昆虫少年でいらした……
本川
全然、どちらかというと私は殺生が嫌いな人間ですから.動物学をやっていると,「あなたは動物が好きなんでしょう」とよくいわれますよ.生物学を やっている人の中には,確かに生物好きの人が多いですしね.だけど,私自身はとくに生物好きでもなかったし,生物好きだから生物学をやるというのは, ちょっと違うんじゃないかという気が,もとからしていたんです.物理の人に「素粒子が好きですか?」と尋ねますか.化学者に,「分子はかわいいですか?」 と訊きますか.数学だって数式をいじるのが好き,問題を解くのが好きというのと本当に数学が好きというのは違うでしょう.生物学も同じことで,たんに生物 が好きとかかわいいというだけで生物学になるわけじゃない.学問としての生物学を学ぶのであったら,生物学の方法とか論理,体系が好きか嫌いか,そういう 次元でものごとは考えるべきだと思う.もちろん,"好きこそものの上手なれ"といういい方もありますが,受験生が進路を決める際は,自分の好みと目指す学 間とはきちんと区別しておいたほうがいい.私自身は,禁欲的な人聞ですから,音楽はものすごく好きなんですけど,基本的には好きなことではメシは食わない 主義です.

英国BBCテレビにも流れた“歌う生物学”

吉永
その音楽のことですが,先生はご自身で作詞作曲なさった歌を,授業中に歌われるそうですね.
本川
もともとは琉球大学で,面白い講義をしよう,学生の心をゆさぶる講義をしようと思って始めたことなんです.とくに一般教養として生物学の講義を受け る学生は,専門家を目指すわけではない.ところが,科学は論理で話が進みますが,論理だけたどっていても,なかなかわかった気になれないんです.生物学も 例外ではなく心底「わかった!」と感じるのは,論理とイメージが一致したとき.ですから,科学の内容を一般の学生や市民に伝えるときには,もっとイメージ が湧きやすい方法を開発すべきだとつねづね考えていました.イメージといえぱ,言葉なら詩です.そこで,生物学の基本的な概念を詩にしてみた.さらに,そ れにメロディーをつけて歌にした.こうすれば,論理だけでは伝えにくかったものが伝えやすくなるのではないかと思って試してみたら,学生の評判が非常によ かったんです.琉球大学では,一般市民向けの公開講座でも,この『歌う生物学』をやりました.
吉永
その公開講座の募集要項が面白いですね.「楽しいメロ ディーにのって,ゆたかな社会人になるための生物学を勉強してみませんか?受講者全員に,ソング・テープをプレゼント」ここでは残念ながら,歌詞の紹介は できませんが,詳しくは先生の著書『歌う生物学』を見てもらうことにして,歌のタイトルの一部だけ,ちょっと挙げておきましょう.「サンゴのタンゴ」「ナ マコの教訓歌」「棘皮動物音頭」「スーパーマン・カルシウム」「自律神経節(ぶし)」「チャンネル音頭」「一生のうた」「キャッチ結合組織の歌」……タイ トルだけでワクワクしてきますね.盆踊りののり?
本川
「キャッチ結合組織の歌」や「サンゴのタンゴ」は英語版のテープも作って,今年,イギリスのBBCテレビで私の歌が流れたんですよ.
吉永
こんなに歌がお好きだと,やはりよく聴かれる?
本川
聴かないんです.奏るのは好きですけどね.高校の頃は3年の終わりまで,専門のちゃんとした先生にっいてフルートを吹いていました.それでまわりは みんな本川は浪人するつもりらしいと信じていた.現役で入りましたと報告に行ったら,そのフルートの先生がビックリしていましたよ.自分で何かを奏らない と,聴く耳も本当には育たない気はします.女房も音大でピアノを弾いていた人間ですけど,わが家にはステレオなんかないんです.CDプレーヤーもない.お まけにテレビもなければ,新聞もとっていない.だから,音楽,本当に聴かない.そのかわり,たまに聴くときにはむさぼるように聴きます.学生はウォークマ ンで四六時中,音楽につかっていますが.あれではただ音楽が流れ去っていくだけじゃないか.情報にしてもそうです.自分で積極的に選び択るもの以外は,拒 絶しておいたほうが身につくんじゃないかということは,いっも思っています.つねに自分を飢えた状態に置いておいたほうが力が出てくる.

切れ味のいい頭と強い頭

吉永
確かに、いまは情報の集め方よりもむしろ捨て方のほうが重要だという評論家が多いですね。
本川
いいことおっしゃる方は世の中にたくさんいるんですよ.でも,体をはってどれだけやっているかというと,話は別問題.私が東大から琉球大へ行ったと きも,「生物学者なら一度はああいうフィールドにドップリつかって仕事をしなくちゃいけない」と,口ではおっしゃる方がたくさんいらっしゃいましたよ.で も,自分からはだれも行こうとはしなかった.
吉永
ウラとオモテの使い分け……
本川
頭のいい人というのはしょうがないところがありますね.私は信用しない、大学に入ると,頭のいい人がまわりにたくさんいましたよね.でも,その後, どうってことなくなった人も結構いる.だから,非常に切れ味のいい頭があるけど,一方では強い頭みたいなものがあって,わからない状態にどれだけ耐えてい られるかというのも,1つの才能のような気がします.
吉永
夫人が書いたマックス・ウェーバーの伝記に,こんなくだりがあります.夫人がウェーバーに,「あなた自身にとって,学問は一体どんな意味を持っています か」と尋ねたところ,ウェーバーは「どれだけ耐えられるか私はそれを知りたい」と答えたそうです.こうした禁欲的な知的誠実さこそ,実は本当に自分を大事 にすることかもしれませんね.
本川
私としては,基本的には昔風の教養人間なんですね.自分自身を教育しながら,己れのトータリティを大きくしていこうという志向はあるんです.徒弟時 代があって,遍歴時代があって,マイスターになる.こういうようなことが頭にあるものですから,助手時代は本当に先生におつかえしましたし,遍歴もなるべ くたくさんしてきた.
吉永
ゲーテの『ウイルヘルム・マイステル』まさにビルドゥンクスロマン(教養小説)の世界ですね.

“複雑な系”としての生物

吉永
生物学の展望についてお話しいただけますか.
本川
いままでの科学を見ると,豊かな世界を築いてきたのはやはり工業技術だと思うんです.その基礎はニュートンカ学.物理や数学の世界ですよね.でも, それだけでは実はこれからはうまく行かないのではないか.つまり,モノだけいじっていて,いままではそれですんだかもしれないけど,公害が発生し,人の心 のことを取りあげることができなくなった.目的や価値を,いまの物理は扱えない.ところが,生物というのは子孫をたくさん残すという自然選択の世界に生き ている.だから,進化の歴史を後ろ向きに見てみれば,これは目的をもって発生し,進化してきたものとも見れるわけですよ、要するに,生き物には目的があ る.目的があれば,それにそった形で価値というものが出てくる.目的とか価値を自然科学の中で取り扱うことのできる学問が,生物学なんですね.そして,生 物というものは,私でもあなたでも,ある目的と価値をもって動き,エネルギーを消費しながら複雑な系(コンプレックス・システム)をつくっている.そうい う目で見れば,人間社会も固有の目的と価値観を持ち,エネルギーを使って動いている複雑な系だ.とすれば,両者の間に似たような法則性を見出すことができ るかもしれない.たとえば近代経済学にしても,いままでの学問体系は物理数学モデルがもとになっている.そこには価値という観点が入っていない.だからう まく行かなくなったんだという気がします.
吉永
なるほど.
本川
工学とか技術にしても,これからは人間が生き残ることをいちばん大事にしないと,いままでのやり方をしているかぎり,たぶん地球は滅びる.生き残る ことをいちばん問題にしているのは生物なわけです.ですから生物に学ぶ,生物の中で働いている論理をお手本にするような技術というものを考えていかなけれ ばいけない.こういうことまで含めて,科学の新しい学問分野が開発されなければいけないだろうし,それは生物学を基礎にしたものになると思います.つま り,自然科学・社会科学を問わず,生物学こそ,これからの学問のカギになるものではないかという気が私にはするんです.

生物の多様性が新しい世界観を拓く

本川
もう1つのキーワードは多様性ということなんですけど、科学の背景には西洋文明の一神教がある、最終的には,なんでも一つの単純な真理に還元してし まったほうがいいという考え方がある.物理学にしても,最後は“万物の理論”みたいなものですべてを統一したい.大統一理論以降,うまくは進んでいないよ うですが,それにしても,みんないつもやりたがるんです.しかし、このやり方はもはや限界に来ている.単純化していくことは,現実のもつ多様性のかなりの 部分を切り棄ててしまっているということです.実際には,相当多様な有象無象のものがあって,それらの間に優劣はなかなかっけられるものではない.そうい う多様性というものをちゃんとすくいとってこれるような科学なり考え方というものが開発されなければならない.その際,多様性を扱う学間は生物学の実践か ら,何か学ぶものを得られるかもしれない.
吉永
つまり,目的や価値という観点からばかりでなく,多様性という面から見ても,生物学独自の論理や考え方がこれからの科学や人類にとって非常に重要になってくる,ということですね.
本川
ここまでくると,生物好きだから生物学をやるとか,逆に生物が好きでなければ生物学はやれないとか,そういう次元の話ではないというのがよくわかっ てもらえると思う.たとえ嫌いでも,生物学の論理がとても重要で,しかも面白いなら生物学をやる.そういう若い人が増えてくれば,生物では何となく物理学 に劣等感があってイヤだという偏狭な見方も失くなると思いますね.
吉永
分子生物学やバイオー点張りの風潮も変わりますか
本川
分子生物学というのは,物理学者が生物の材料を使ってやっているだけであって,実は生物そのものを大事には全然していないんです.たんにモノとして しか扱っていない.生物を搾取しているだけ.モノに完全に分解してしまって見ている.そういう見方は人間観にも当然はね返ってきて,人間はたんなる分子の 集合体になってしまう.そんな見方からは,何の価値も生きる力も出てこない.ところが,生物という複雑な系は,たんなる分子の集合体じゃなくて,そこには 系としての法則性があるんです.それは何か.それを知っているのと知らないのとでは,世界を見る目や生きていくうえでの判断にも大きな違いが出る.私が, 専門でもないのに<サイズの生物学>を書いたのもそのためなんです.
吉永
『ゾウの時間ネズミの時間』ですね.
本川
動物の時間・空間・エネルギーの関係式は,物理学の世界でのそれらの関係式とまったく違う.これは大発見じゃないかと自分では思っているんです.こ れまでこんなことをいっている人はだれもいないんですよ.空白の部分なんです.そして,この関係式が新しい技術,たとえば現在,私が関係している“バイオ ニック・デザイン”のような技術にとって,非常に重大な意味を持っのではないか.そうなれば,世の中のお役に立てるんじゃないかという気もする.
吉永
“虚学”がいつの間にか“実学”に?
本川
基本は,「人はパンのみにて生きるにあらず」ですよ.志は高いし,何といってもカスミを食っているのがいちばん面白い.でも,カスミから価値が創造できればもっと面白いし,それこそいちばんスリリングなことじゃないですか.
吉永
「一見古典的な生物学こそ,人間のこれからの世界観や技術の根幹となる」というところで,大学の数学版『マイスター・ジンガー』のフィナーレとさせていただきます.
(よしながよしまさ,サイエンス・ライター)
Listに戻る

Science Navigation
(月尾嘉男氏との対談、「自動車とその世界」1994年No.259)


生命の倫理から現代を考える

サイズと時間がつくる価値観
月尾
『ゾウの時間ネズミの時間』を読ませていただいて、こんな難しい本はないと思いました。理解しようとすると数学的素養もいるような本が数十万部も売れたというのは、不思議な現象ではないかと感じています。
本川
売れた後で、いろいろ理由づけはできると思うんですが、やはり、バブルがはじけたときに出たのが良かったのではないかと思うんです。
 つまり、何でも大きいのがいいということでもなさそうだ。あるサイズの生き物にはそれなりの論理があるし、小さいものが悪いわけでもない。一つの価値観、例えば、大きいほうがいいとか、時間でも一つしかないということではなくて、いろいろな価値観があってもいいではないかという気分にマッチしたんでしょうね。
  価値観といっても宗教的な意味合いではなくて、生きる上での認識の枠組みはもう少し多様だということが、これまであまりいわれていなかったですから、新鮮だったのではないでしようか。
月尾
社会的な関心という観点からこの本を読ませていただくと、生物学の法則には人間の社会にも当てはまるような法則がたくさんあるように感じます。
 バブルがはじけてどうしたらいいか分からないでいた時代にあって、そのような法則のなかに企業社会の次の方向や人生の方向を示唆するものがあったから売れたのではないかとも思いますが、いかがでしょうか。
本川
 私もそう思っているんです。
 倫理を考える際に、人間の頭の中だけで導き出すのではなくて、人間とはこういう生き物である、体はこういうふうにできているということをクールに見たなかから、導き出すやり方があってもいいのではないでしょうか。
 それで、単に動物学というだけではなく、動物のなかで人間がどういう位置にあるかを書いてみたかったんです。
月尾
この本には、たくさんの法則が出てきますが、まず「コープの法則」が紹介されています。生物というものは大きいほど環境にはうまく適合するというような内容です。
本川
 コープの法則というのは、同一系統のなかでは大きいものが遅れて出てくるという法則です。
 私たちは何となく、時間がたつほどいいものが出てくると思いがちですね。すると、大きいもののほうが進化しているんだという話になりがちなわけです。しかし、よく調べてみると、小さいものから進化が始まる。そして、バラエティが増えていくにしたがって、体の大きさにもバラエティが生じるから、後から大きいものが出てくるんだということが分かってきたんですね。
 一断面だけ見ると、大きいものは遅れて出てくるから進化したものだ、という言い方になってしまうのですが、実は、小さいもののほうが祖先になるという話です。
 なぜかというと、ここに時間が関係してくるのです。生き物のサイズが違うと、どうも時間の進み方が違うのですね。大きいものは何でも時間がゆっくりだし、小さいものは時間が速く進む。そうすると、小さいものほど一生の時間も短いですから、世代をたくさん重ねることができる。そうなると、小さいもののほうが、同一の物理的時間のなかでもいろいろな変異を生み出すことになります。
月尾
チャンスが多いわけですね。
本川
そうです。しかし、動物の進化を考えるときに、大きいものと小さいもので時間が違うという考え方は、実は、古生物学のなかでも定説にはなっていないんですね。時間が変わるということは、今まで表立って言い出しにくいことだったような気がします。時間は時計で計るもので、ニュートンの絶対時間というものがあり、生物の大きさなどには関係なく一定の時間が流れるというのが物理学の時間です。いまの科学は、物理学が基礎になっています。現在の社会で科学的ということは、実は物理学的だということですね。そういう意味で、時間が一定であるということに異を差し挟んではいけないようなところがあるのではないかと思うんです。ですから、時間の間題はなかなか科学になりえないんですが、日常的には私たちだって、体感時間は随分変わるように感じているはずなんですね。例えば、子供のときの時間と、大人になってかうの時間の感じ方は違う。小さいものほど時間の進み方が速いとすれば、一日の密度が濃いというか、一日が長いわけですね。
 そういうことが、もっと長いスケールの進化の話にもあるのではないか。そう考えてみると、大きいものは遅れて出てくるかうといって、決して大きいものが優れているわけではないということになると思うんです。
月尾
現代の、先端分野の産業に、先生がいわれる通りのことが起こっているのではないかと思います。例えばコンピュータの分野を考えますと、生物学の法則がピッタリ当てはまって、小さいベンチャービジネスから次の世代の企業が誕生して、それが古い世代を乗り越えていくということが起こっている。そう考えますと、企業社会と生物世界は非常に似ています。
本川
 アナロジーが成り立つような気がするんですが、単にアナロジーというより、本質的に同じことが起こってもいいような気がするんです。
 生き物というのは、なるべき生き残って、子孫をたくさん増やすという目的をもっている。そのためにエネルギーを注ぎ込みながう、秩序だった、複雑な体を維持している。企業もやはり、生き残り、売り上げを増すという目的をもって、エネルギーを使いながら、複雑なシステムを動かしている。定義はまったく同じになってくるわけですね。ですから、ある目的をもったような複雑系というなかでは、時間やエネルギー消費量とサイズの間に、似た関係が成り立ってもいいのではないかという気がするんです。

動物を食べるということ

月尾
最近、リフキンというアメリカのジャーナリストが、『脱牛肉文明』という本を書き、環境間題の大きな要因として、西欧社会が牛のような家畜を飼育し、それを食べているのが非常に影響しているということをいっています。牛肉のような効率の悪い食物をなるべく食べない社会が、環境問題の解決に重要だというわけです。生物のサイズが大きくなると、白分自身を維持するために大変なエネルギーを使ってしまい、エネルギーが成長にはなかなか回うない。牛の場合ですと二%程度しか回らないそうです。
本川
 サイズのほかに、変温動物か恒温動物かというファクターがあるんです。恒温動物は、より速く、より正確に動くことでうまく生きていこうという戦略をとっています。例えば、いつもエンジンをかけっ放しで、何かあったらパッと出発できるという感じですね。かなり高い体温を常に一定に保つ必要があって、何もしなくてもエネルギーをたくさん使うんです。すると、食事をたくさんとるんですが、歩留まりが悪く肉にならない。
 ですから、哺乳類やトリを食べるのは、実は、食べるほうとしては非常に効率の悪い生き方なんですね。
 もう一つがサイズの問題で、大きい生物は、小さい生物に比べて、成長するのに時間がかかります。ですから、飼う側の時間の経済を考えても、牛を食べるのは非常に手間と時間がかかるんですね。そう考えると、牛を食べるということは、随分とぜいたくなことになるんです。サイズが小さい生物なう、遠く成長するかう時間的には得である。魚などは、体を維持するためのエネルギーをあまり必要としないので、もっと効率がいい。さうに、効率がいいのは植物を食べることですね。ですから、穀物をあまり食べないで肉ばかり食べているのは、エネルギー的には大変な無駄をしていることになります。
月尾
別に日本優越論でもありませんが、日本のように莱食の伝統が長くあり、魚を非常によく食べるという食習慣は、地球環境ということから考えると、非常にいいということになります。そういうことを生物学の観点からも理解していただくのは、今後の世界にとって重要なことかもしれません。

体の時間、社会の時間

月尾
面白いご指摘だと思いましたのは、個体のサイズとその個体が集まって生活するときの密度には、ほぼ一定の関係があるというお話です。例えば現代の日本の居住密度と、家のサイズを比べるとどうなるのでしょうか。
本川
 家のサイズから見ると、ちょうど体重が一四〇グうムぐらい、ネズミが住むのにちょうどいいぐらいになってしまいます。
月尾
つまり、高い密度にあまりにも大きなものがひしめき合って生活しているのが、今の日本の社会というわけですね。
本川
ネズミでも、密度を非常に高くして飼いますと、まず、子供の数が減ります。それから、非常にストレスがかかってきて、毛が抜け落ちたりするものが出てきますね。
 それをそのまま人間に当てはめていいのかどうかは分かりませんが、現代人に非常にストレスがかかっていることは確かでしょうね。
月尾
ただ、人間の場合、技術というものがあって、例えば、温度が高いところは冷房しますし、ひしめき合うところをうまく整理して、まとめて運ぶ交通手段をもったりする。 本来の自然界の生物の密度を、技術をもつことによって変えてきたわけですね。
本川
 まさにそうで、技術がなければ、人間がこんなに高密度のなかで生きていられるわけはないんです。工学もそうですし、農業もそうですね。食糧を増産してやってきたわけですね。
 それはそれで結構なんですが、あまりに寄りかかりすぎると、あるところから先は、ハッピーにはなれないかもしれない。
 例えば、動物の体のなかで起こっていることを調べてみますと、単位体重当たりのエネルギー消費量と、時間の進む速度が正比例するんです。ですから、エネルギーをたくさん使えば使うほど時間が速く進む。そういう関係が動物のなかにはあるんです。
 翻って、現代人はどれぐらいのエネルギーを使っているかといいますと、体が必要とする量の三十倍ぐらいのエネルギーを使っている。そのエネルギーで何をやっているかというと、クルマや飛行機やコンピュータや工場のラインを動かしている。これが便利なものであるというのは、要するに、みんな時間を速めているものなのですね。
 先ほど、企業や社会と、動物の体のなかで起こっていることにアナロジーがあるという話をしましたが、目的をもった複雑系のなかでは、エネルギー消費量と時間の速度に相関があるのかもしれない。すると、現代の社会の速度は非常に速くなっているという言い方ができると思うんです。
 ですから、縄文人の時間に比べて現代人の時間は、三十倍ぐらい速く進んでいるのかもしれない。しかし、私たちの心臓のリズムは縄文人と変わっていないでしょう。ほかの同サイズの哺乳類とまったく同じように打っています。ということは、体の時間は昔ながうの縄文人だが、社会の時間は三十倍速く進んでいるとなると、どこかでつじつまを合わせないとやっていけないわけですね。
月尾
 個体の時間と社会の時間のギャップ。これが問題なわけですね。
本川
 速く行動できることは便利には違いない。しかし、ケタ違いに速くなってしまいますと、体が社会の時間についていけなくなる。だから、いくら便利だかうといっても、体が幸せには感じられなくなるのではないでしょうか。
 技術の原点が人間を幸せにすることだとすると、体が幸せに感じられないことは、技術としてはやってはいけないことではないか。そういう話になってきますね。
 さらに二十一世紀は、環境、つまり周りのものたちと一緒に生き残っていくことが大きな目標でしょうから、これまでのように、人間だけがどんどん便利に、速く行動することは考え直さなければならない。環境も壊すし、自分たち自身も壊れてしまうのではないでしょうか。
 では、どこで歯止めをかけるかなんですが、エネルギーをどこまで使ったらいいのか、あるいは消費量をどこまで減らせばいいのかということに、客観的な根拠が提出されてはいない気がするんです。私はそのときに基準になるのは、やはり自分の体だと思います。体がこのぐらいのリズムなら大丈夫であり、それに見合うエネルギーを超えた消費は差し控えるというのが、倫理というものではないか。そういう生命倫理、工学の倫理みたいなものを考える必要があるのではないかと思いますね。

生物世界の移動技術

月尾
 動物の移動の仕方に、車輪を使うというものはなく、これは人間独自の発明であるという話が紹介されています。それからスクリューも、ほとんどの生物は使っていなくて、羽ばたくとか、ひれを動かすという形で移動する。人間の技術は生物から学んでいるところが多いのですが、車輪とスクリューだけはそうではないということは、なかなか面白いご指摘だと思いました。
本川
 地上を行く車輪の場合は、サイズの問題だろうと考えられています。つまり、地上の凸凹が車輪の半径の四分の一までならば何とか進めるんですが、それ以上になると、突っかかってしまい乗り越えられないんです。
 実際、自動車も凸凹道には弱いですし、特に四輪になると曲がるのが非常に大変でしょう。
 自然界というのは凸凹だらけなわけですから、やはり足で歩いたり、ミミズのように匍匐(ほふく)するものでないと、凸凹が回避できないんです。ですから、車輪というものは、人間が一生懸命道路をつくり軌道を引いたりしてはじめて、使用できるようになった。これこそまさに文明なんですね。
 しかし、国土のすべてを車輪が走れるようにしようとすると、全部コンクリートで真っ平うに埋め尽くさなければいけない。その弊害は大きいんですね。また、凸凹の地面を眺めることで、心が安らぐようなこともあるかもしれない。コンクリートで真っ平らに埋め尽くすことをやりすぎると、やはり人間は幸せにならないのではないでしょうか。
月尾
その車輪を使ってもなお自動車などは歩く生物よりもエネルギー効率が悪い。そういう点では、人間が動くための補助手段を改めて見直すことも、エネルギー問題などから大切なことですね。
本川
 エンジンのサイズの問題もありますが、要は車輪にするかどうかですね。しかし、今の技術で、車輪ではない四足歩行のような自動車をつくっても、非常にエネルギー効率が落ちるでしょうね。また、水のなかや空を飛ぶときには、地上のような凸凹は関係ないですから、プロペラやスクリューを使ってもいいはずなんです。これに関しては、あまり確固としたことはいえないのですが、例えば船の場合などでは、スクリューを回しますと気泡が出てくるキャビテーションという現象があります。
 気泡が出てくると、効率が非常に悪くなるんですね。それでスクリューを使わないんだろう。もう一つ、スクリューのような大きな半径のものを回そうとしますと、真ん中のシャフトは、硬くねじりに強い材料でなければならないんですが、生物がそれほど強度の大きい材料をつくれるのかという問題がありますね。
 生物は、基本的には非常に軟らかくて、しなやかな素材で体をつくっています。しなやかな素材ならば、ひれなどが非常に効率がいいんですね。
 イルカの泳ぎも非常に効率がいい。グレイのパラドックスというのがあるんですが、イルカの模型を作り、それを水槽のなかで引く。そのときの抵抗力から、イルカがどのくらいの推進力を必要とするかが計算できるのですが、それをやってみると、とてもイルカが出せるような力ではないんですね。
 ということは、たぶんイルカは、水の抗力を減らすように体の表面を適当に波打たせたり、粘液を出したりして、同じ速度でも、ずっとエネルギーが少なくてすむように泳いでいる。そのように、速度に合わせて体の表面を変化させるということをやっているんですね。
 それは、今の人間の技術だとできない。人間の技術は、石だとか鉄だとか、プラスチックにしてもみんな硬いもの、変形しないものを使っている。ではもう少し、しなやかなものを使ったらどうか。これは、これまでとはまったく違った技術を積み上げなければいけませんので大変なことなんですが、そういう発想で何か新しいものができたら、いいことなのではないかという気はします。
月尾
最近、マイクロマシンという分野が盛んになり、昆虫が随分研究されています。先生の本のなかにも、昆虫の体は硬い部分と軟かい部分をうまく組み合わせて、非常にうまくできているという例が書かれています。
 そういう点でも、乗り物や建物は生物から学ぶところが、まだまだあるのでないかという気がします。

「島」からの発想

月尾
この本でもっとも納得したのは、「島の法則」です。大陸と隔離された島では、大きいものは次第に小さくなり、小さいものは大きくなる。これは日本に大発明や大思想が出ないことと密接に関連があると思いました。
 例えばマルクスの『資本論』のように、本一冊で世界に巨大な国家をつくったとか、アインシュタインの相対性理論のように、一行の数式で世界の認識を変えたとか、コンピュータのように世界の産業を変えるような発明がなかなか出てこない。先生も「島の法則」は日本人の特性に影響していると書いておられます。
本川
動物のサイズだけではなくて、住んでいる場所のサイズが、動物そのものや、その行動などを規定するのではないかと思っているんです。
月尾
 昨年、話題になりましたが、ハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授が、「文明の衝突」という論文のなかで、世界の文明を七つぐらいに分けると、日本は韓国とも台湾とも中国とも類似性がなく、まったく独白の世界であって、その特殊性が、世界のいろいろな国と文化的な衝突を起こしている原因ではないかといっておられます。
 先生はこの本の後書きで、いかに違うサイズの世界を理解するのが難しいかを、生物を研究されてきた立場からお書きになっていますが、日本がほかの国を理解しなければいけないし、日本もほかの、ある意味ではサイズの違う国から理解してもうわないといけない時代に、どうしたらそういう方向にうまく進めるかを考える上で、非常に参考になるような気がします。
本川
 今の世界の枠組みをつくっているのは、やはり西洋の思想でしょう。西洋の思想は、北の国の、大陸の思想なんですね。大陸というのは大きな一つの価値観で世界全部を塗り尽くしてしまおうという発想が、どうもあるような気がします。  大陸も北も環境が非常に厳しいので、生き物にしたって、うまく適応したものだけが生き残っていて、多様性が非常に少ない。
月尾
そうですか。
本川
 それに対して南は、もう、有象無象のものがたくさんいる。それから、島もそうですね。島ごとにみんな違ってくるわけです。極端な例はガラパゴス諸島ですね。
 物事を一つのアイデアで全部を解決するようなことを考えるのは、実は、北の大陸の発想なんですね。それに対して、南の、しかも島の発想は、いろいろなおかしいものがたくさんあるのが世界だということになってしまうわけです。  今、世界の価値観をリードしているのは、北の大陸の国々です。それは西洋だけではなくて、中国もそうです。しかし、世の中に南の国もたくさんあるし、島もいろいろある。
 さらに、地球が狭くなって、だんだん島になってきているわけですから、島的な発想を全世界の人たちに認めていただくほうが、どちらかというと今後のためだと思ってもいいような気がするんです。そういう発想から日本を理解してくれという言い方をしてもいいのではないかと思うんですが。
月尾
それは、日本の将来にとっては非常に大事なことですね。もちろん、日本が黒字になり過ぎだとかいう現実的な問題はありますが、理解されないために不利を被っている点は非常に多い。ですから、さまざまな機会に、そういうことを世界に訴えていくことが、非常に重要ではないかという気がします。
本川
 そのときに「日本の立場」という言い方をすると、日本の特殊性という話になるのですが、生き物の世界でこうだとか、もう少しニュートラルな現実を引き合いに出しながら何かいえたならば、随分助けになるのではないかと思います。
月尾
 「一生のうた」という先生の名作があります。心臓は、どんな生物もほぼ十五億回で寿命になり、呼吸は三億回でほぼ終わるということは、ある種の宗教的な響きもあり、あがいても無駄だということではないかとも思います。  現代の人間は、かなりあくせくとした生活を強いられていますが、こういうことを知ると達観も生じるのではないかと思います。最後に、生物から見た人間の生き方について、お話しいただけたらと思います。
本川
人間は昔から不老長寿になりたいと願っているし、現代の日本は、不老とまではいかないけれども、かなり長寿になった。これは医療技術の勝利なんですね。これをもっと進めていけば、もっと長生きするのではないか。そういう希望は何となくもてるわけですが、それで本当に、私たちは幸せになるのかは、やはり考えなければいけないのではないでしょうか。
 生き物はあるデザインをもってつくられていて、寿命のない動物はないんです。植物だったら寿命のないこともあるんですが。
月尾
そうですか。
本川
 屋久島の屋久杉は樹齢五千年などといわれていますが、それが本当の寿命かどうか分からないんですね。台風が来たり山火事になったら、みんな枯れてしまうわけですから。植物だったら寿命がないこともありうるんです。ところが、動物ではーゾウリムシのような単細胞の動物は分かれていきますから、寿命がないという言い方もできますがーやはり寿命があるようにできているんですね。
 動物にとって「長寿=幸せ」とは、簡単にはならないのではないでしょうか。その生き物のデザインに、すんなりと沿って生きるのが幸せというか、賢い生き方なんだよということは感じますね。実際の動物をみると、哺乳類などは少し子育てをしますが、大抵は子供を産んだら親は死んでしまうんですね。
月尾
サケなどはまさにそうですね。
本川
 そうです。そういうふうにできているんですが、人間はそれを無理やり延ばしてしまっているところがある。
 縄文人の寿命は三十年ぐらいだったといわれていますし、明治の初期だって四十いくつでみんな死んでいた。子供を産んでも親が生きていたら、子孫の食いぶちを親がさらってしまうことになって、それは本当は後ろめたい行為ですね。本当は生きていてはいけない。
月尾
自然の摂理ですね。
本川
 ええ。自然に死なせてくれるようにできているのに、老いの病を撲減しないといけないと思うこと自体、ある意味では、動物としてのデザインに反した行為になるわけです。
 そうは言っても、だれもそうは死にたくないわけです。そこで、人間としても生き物としても、いい生き方なり、いい死に方というのを、やはり考えなければいけないだろう。ただ延命治療だけして、生きていることが本当にいいのか。ただ寝たきりで生きているよりは、一生懸命働けるだけ働いたほうがいいのではないか。人それぞれでしょうが、何を幸せと感じるか、どういう老後を送るかは、皆が相当一生懸命考えなければいけないことでしょう。
 何万年もかけて、三十年から四十年の一生を生きる知恵を積み上げてのたのが、戦後、あっという間に寿命が八十年に延びてしまった。その医療の進歩を手放しで喜んでいいのかどうか。どうやって生きたらいいかを学ばずに、ただ寿命ばかり延ばしてしまったんですね。
月尾
 この本を、そういう人生の生き方として読むのもいいのではないかと思いました。それと関連するかもしれませんが、世の中にはもう一つ情報というものがありますね。
 この本は、エネルギーの視点から生物の時間を見ておられるわけですが、生物、特に人間は情報を摂取して生活を加速している面も非常に強いわけです。現在、高度情報社会といわれて、毎日、目や耳に膨大な情報を詰め込まれながら生きている。これが生物の時間にいろいろ影響するということについてはいかがでしょうか。
本川
 それがいちばん知りたいところなんです。ですが、何を測って生物がとりこんでいる情報量だとするのか。そこが難しいんですね。何を情報としているのかは、生き物によって違うでしょうから、それをいろいろな生き物で、サイズの違ったもので研究すると大変面白いことになると思うんですが。
月尾
 エネルギーから見た生物をお書きになったので、次は、情報から見た生物の法則をいろいろお書きいただけたら、またベストセラーになるのではないかと期待しています。
Listに戻る

週刊現代 スペシャル・インタビュー


人類はエネルギーを使いすぎ
国家・企業にも生物学的発想が必要です

  生物はサイズによって時間の流れる連さが違う。こんな視点で書かれた「ゾノウの時間ネズミの時間」(中公新書)がベストセラーとなり、この著で講談社出版文化賞科学出版賞を受賞した本川達雄・東工大教授。難しい生物学の話をなんとか学生たちに聞いてもらおうと、講義内容を作詞作曲して、自分で授業中に歌うという名物教授としても知られる氏だが、その歌とエッセイからなる「歌う生物学」小社刊)も、話題となっている。「今の人間社会にこそ、生物学的発想が必要だ」という本川教授に、話を聞いた。

繰文人の30倍のエネルギー消費

 
Seino
サイズによって生物の時間の進み方が違うという考え方が、とても新鮮だと評価されていますね。
本川
『従来、時間というのは一つで、絶対変わらないものだと考えられてきたわけですね。しかし、生物には、物理学における絶対時間とはまた達った“生理的時間”と呼べるものがあって、サイズが違えば、心験の鼓動の時間も呼吸の時間も変わってきて、大きいものほど何事にも時間がかかるんです。
 ゾウとネズミの話でいえば、ゾウのほうが1回の心臓の鼓動にも呼吸にも時間がかかって、ゆっくりしている。時間は体長にほぼ比例して長くなると考えていいだいていいと思います。時間の中には寿命も含まれていて、サイズが大きくなるほど寿命も長くなる。ネズミは寿命が2年くらいですが、ゾウは70年くらい生きます」
Seino
時間だけでなく、エネルギーの消費量もサイズによって変わってくるということですね。
本川
「ええ。体重1kg当たりのエネルギー消費量は、小さい動物のほうが大きい動物よりもエネルギーをたくさん使います。さらには、『時間の進む速度はエネルギー消費量に比例する』という関係があって、エネルギーをたくさん使えば時間は速く進むんです。
 具体的にいうと、ゾウはあれだけの巨体にもかかわらず、体重当たりでいえば、一ネズミの6%しかエネルギーを使っていない。それしか使わなくても生きていけるということは、ゾウのほうがネズミよりも余裕があるし、経済的だともいえます。別の言い方をすると、小さい動物は生命を維持するだけで精一杯なんですね。だから、エネルギーを使って、忙しく動き回らなきゃならない。ところが、サイズが大きくなると、生命を維持するためにはそれほどエネルギーを使わなくて済む。だから生き方もゆったりしているし、余ったエネルギーを遊んだりものを考えたりすることに使えるわけです。
 一般に、動物のサイズとしては大きいほうに属するクジラ、イルカ、ヒトに知能があるのはそのためなんです」
Seino
ゾウがネズミ並みに動くとどうなるんでしょう。
本川
 「そんなことをしたら大変なことになります。動くとエネルギーを使うから熱が出る。ゾウがネズミ並みに動いたら、自分の出した熱で自らステーキになってしまいますよ。それくらい、生物にとってはサイズと時間とエネルギーの間に理にかなった関係性があるということなんです」
Seino
 なるほど。先生のお考えでは、“サイズの生物学”は企業や国家にもあてはまるということですが……。
 
本川
「ええ。小さい企業なら社内の連絡に時間がかからないので、小回りがきいていろんな方向にいけるけど、つぶれやすい。一方、大企業はつぶれにくいけど、何をするのにも時間がかかるし、方向転換もゆっくりとしかできない。社員一人当たりのエネルギー消費量ということでも、小さい企業の社員はフルに動かなきゃいけないけど、大企業の社員はあまりエネルギーを使わなくて済む。先程のゾウとネズミの話でいえば、ゾウがネズミ並みに動くと自分でステーキになって、周りまで焼き尽くしちゃいますから、大企業の社員はあまり働かないで、サボっていたほうがいいという話にもなるわけです(笑)。
 国家についても同じようなことがいえて、日本が小国だった間は勤勉に働くことはいいことだったのですが、これだけの経済大国になったら、国家としての質も変わってしまったわけですから、今までと同じように働いていたら、たちまち熱を発散して、周りの国を焼き尽くして迷惑をかけるという話にならないでもない」。
Seino
今まさにそういう状況ですね。
 
本川
「そうでしょう。複雑で、目的を持って、エネルギーを使いながら動いているシステムということでは、企業も国家も、さらには経済なども、非常に生物と似ているところがあるんです。ですから私は、企業や国家や経済を考える時にも、もう少し生物学的発想を取り入れて、サイズによって企業や国家はどう変わっていくのか、サイズの企業学や国家学を真面目に研究してみると面白いと思うし、社会にとっても有益なことだと思うんですね」
Seino
 ところで、現代の日本人は縄文人の30倍ものエネルギーを消費しているということですね。
本川
 「ええ。30倍もエネルギーを使っているということは、動物の進化の上では実はすごいことなんですよ。というのは、同じサイズで比べると、恒温動物は変温動物の30倍ものエネルギーを必要とするんです。つまり、昔と比べて30倍もエネルギーを使っている現代人というのは、生物としては同じヒトでありながら、もはや縄文人とはまったぐ別の種といってもいいくらいに違ってきているということなんです」

便利なことはいいことじゃない

Seino
現代人がそれくらい過剰にエネルギーを使っているとしたら、エネルギーど時間の関係からいえば、寿命は短くなると思うのですが、それが逆にのびているというのは、どういうことなんでしょう。
 
本川
「そこがおかしなところなんです。大昔の人間は、夏は暑ければ昼寝して、冬は寒ければ丸まって過ごしていたから、それほどエネルギーを使わなかった。それが動物としてのヒトが持っている体のリズムで、あまり動かなくても寿命は30年<らいしかありませんでした。それが現代人はエネルギーをたくさん使って一年中忙しく動き回るようになった。我々の体が本来持っているリズムの30倍も速く動いているわけですから、体に無理もくれば、精神的にもストレスが溜まって、本当なら寿命も早く尽きるはずなんです。ところが、寿命はのぴた。.考えられることは、人間は自分のエネルギーではなく、石油や石炭によるエネルギーを子孫の分まで使って、長生きできるようになったのではないかということです」
Seino
 なるほど。しかし、そうだとすると、問題がありますね。
本川
「そうなんです。エネルギー問題は現実には何も解決していない。それどころか、むしろどんどん深刻になっているわけです。生物学的にいうと、動物は生殖活動が終わったら、あとはおまけの生なのですから、本来なら肩身の狭い思いをして、子孫に遠慮しながら生きるのが自然なんですが、人間だけはかなり特殊な動物で、子孫のエネルギーを食いつぶして自分たちの生きる時間を買っているともいえるんですね。ですから、みんなして今までの生き方を見直して、これからの生き方を考えないことには、人類は生物学的にもエネルギー問題という点からも、破滅の道をたどることになってしまうと思います」
Seino
破減を避けるためには、どうすべきだとお考えですか。
 
本川
「人間は、もうう一度、動物としてのヒトのサイズに返って考えてみることが大事だと思います。エネルギー消費量でいえぱ、ケタが一つ違うという状態はやめるべきだと思うんですね。つまり、今の3分の一以下に減らすということです。とはいっても、それはおそらくできないでしょうから、せめて、今までのようにどんどん増やすということはやめるべきです。そのためには、便利になるのはいいことだという考え方そのものを見直す必要があります。体が動くということが動物の本来の姿だとすれば、便利になって動かなくて済むようになるということが、必ずしもいいことでも幸せなことでもないともいえるわけですから」
Seino
ご自身もエネルギーを使わない生活のほうが好きなんでしょうか。
 
本川
「そうですね。それほど世間に逆らつているわけではありませんが、うちには新聞もないしテレビもない。情報量が多いとエネルギーも多く使うので、あ支り余計なものは読まないほうがいいと思っているんです(笑)。家が狭いので、ものもあまり買いませんから、エネルギー消費量ということでは、普通の人よりも“省エネ”的な生活をしているんじゃないでしょうか」
Seino
大学の講義では今も歌っていらっしゃるんですか。
 
本川
「ええ、歌っています。僕の歌は知識として覚えられるので、大学生だけでなく、小さい子供さんたちにもぜひ覚えてもらいたいと思っているんです」(by M. Seino、1993年12月11日)

Listに戻る

教官インタビュー(工業大学新聞、2003年6月1日)


教養とものの見方の大切さ

今回は基礎生物学、基礎生物学実験を担当されている、生命理工学部の本川達雄先生にお話を伺いました。
☆先生はいつ頃東工大にいらしたのですか?
「九一年に来ましたので十二年前になりますか。それ以前は琉球大学にいました」
☆どのような研究を専門にしているのですか?
「ウニ、ヒトデ、ナマコなどの棘皮動物の専門家です。ナマコなどみんなそうなんですけど、皮の硬さが変わるんですね。皮膚が硬さを変えたり収縮したり、いろいろ面白いことを生き物がする。その研究をしています」
☆東工大の生物の理工系基礎科目の特色はどのようなものですか?
「私どもは理工系基礎科目で、基礎生物学を前期後期で二科目、AとBですね。それと基礎生物学実験という全部で三種類の講義を開講しております。東工大の学生は高校で生物を取らない人がほとんどなんですね。これは生命理工部へ進学する七類の学生もそうなんです。ここはちょっと問題なのですが・・・。
七類生と他の学生とでは違った授業を行っています。私は両方担当しているのですが、内容が違います。七類生は将来生命系に行く人達です。それで高校の生物をやってないわけですから、高校の復習から始まって、専門に繋げる。いい言葉で言うとしっかりした、悪い言葉でいうとあまり面白くもない内容です。基礎的な話は詰め込まないといけませんからそうなりますね。そういうしっかりしたスタンスでやっています。
 もう一つは七類以外の学生です。昔風に言うなら教養ですね。我々自身が生き物ですから、よく生きるには生き物とは何か知ってなきゃいけない。それから、世間でよく言われるのは、二十一世紀は生物の世紀だってことですね。ですから生物は大切で、工学専門で「俺はもう機械しかやらない」という方々でも教養として知ってなきゃいけない。この事は一つありますね。
 それから私が一生懸命言ってるのは、機械作るにしても化学工業するにしても、環境問題があるでしょ。例えば水銀では、これくらいの濃度なら安全だって海に垂れ流していた。そうしたらどんどん生物濃縮していって、最後に人が食べて大変なことになった。工学の影響が生態系を通してどうなっていくか、それを知らないことには、安心して工学の技術者でいられないという話になる。それをすっ飛ばしてるから、すごい問題が起こってる。
 あと、私がよく言ってるのは時間の話です。コンピュータとか車だとか使うのはとっても便利なんですよ。みんな手放しで便利だってパチパチ拍手するけれども、考えてみれば、それはある意味じゃ時間を早めているのね。
 ところで、生物の時間は時計の時間だけじゃない。生物の体の中ではエネルギーを使うほど時間が早いんです。エネルギーを使うと動物の体の中で時間が早くなる。このことは、私らの社会生活だってそうだと思うんですよ。コンピュータ使ったり車使ったりしてるから生活のぺースが早いわけです。そうすると時間も変わってくる。特に今の技術は時間を早める技術なんですよ。
 だから便利になったパチパチって本当に喜べるのかっていう疑問が出てくる。私達には私達の安心して生活できる早さがあるだろう。だから体と相性のいい時間の速度で社会も動いていないと駄目だと、そこまで考えた技術でないと、まっとうな技術にならないんじゃないか、と私は考えています。今までの工学はそういうことを全く気にしてなかったから非常に問題なんです。それで、例えばMITは生物学を必修にしちゃった。これからは工学部の人間でも生き物のことを理解してなかったら駄目だろう。だから一年生のときに、良い人間、良い技術者になるための生物学を教えたい。これが七類以外の学生へ講義するスタンスです。ですからこの辺は他の大学とはずいぶん違う、特色のある講義をやっていると思います。
 講義だけではなくて基礎生物学実験もですね。東工大生は生物を知らないから、目黒の自然教育園に行って植物を観察するとか、食用カエルから筋肉や神経取り出して、目の前で収縮させる実験をやるとか、ハツカネズミの解剖をするとか、いろいろやってます。でも、一年生の大人数で生の生き物取り揃えて実験するのはすごく大変なことなんです。例えば花粉管の観察なんて、実験の日に花を咲かせて、ちゃんと花粉が顕微鏡の下で伸びていくように管理しとかないといけない。これはすごく胃の痛む話なんです。
他の大学では大人数の基礎科目でそういう事はやりません。でも東工大は、生命理工学部が出来る前から生物系の教官が結構いたんです。一年生のためにいい教育をするという東工大の基礎科目の伝統があるんですね。ですから大変でもしっかりやらなきゃいけないと思って、一生懸命やってます。講義にしても工学部の人にどういう話をしようか、よく考えてやっています。ですから非常に特色のある、手間のかかった講義をしていると自負しています。いい講義だっていうんですが、大して取らないですよ、工学部の方々はね。残念だと思ってます」
☆東工大の入試に生物の試験がないことについてはどうお考えですか?
 「まあ私自身が生物学をやってますし、生命理工という学部があるなら、選択でも生物が入試にあったほうがいいと、個人的には考えています。但し東工大は、生命現象であっても、物理と化学で切り込むんだという発想なんですよ。だから高校で生物を履修して物理をとっていない学生が入ってくると、大学全体としての勉学についていけない。そもそも物理学の出来ないような人間は東工大生としてふさわしくないという考えが、東工大は非常に強いです。一つの誇りなんでしょうね。
 でも、実際に生命理工という名前に惹かれて入ってきて、生命がないと嘆く学生も、少なからずいるのは確かなんです。そういう学生は落ちこぼれちゃうんです。やはり、物理学的な考え方だけでなくて、非常に生物好きという人が入ってくるのは悪くはない。だから私は生物での入試はあった方がいいと考えています。例えば七類の五分の一は生物とかね」
☆基礎生物学、もしくは基礎生物学実験の非常勤講師は何人いますか?
「非常勤講師は今、三人います。実験に一人、講義に二人お願いしています」
☆基礎生物学Aと基礎生物学Bは、前期後期と通年で取れますが、やはりどちらも取らないか、あるいは片方だけ取る学生が多いのでしょうか?
「やはり両方取らない学生がほとんどですね! 非常に多いです。でも、取った学生は大体両方取りますね」
☆基礎生物学の講義で教える具体的な内容はどのように決められているのですか?
「七類とそれ以外で違っているんですが、七類ではやはり非常に教科書的な講義です。七類以外ではあまり細かい生物の知識を教えてもしょうがない。生物は特にいっぱい専門用語が出てきますから。それで、面白いと思われる、大事だと思われることを中心に話すことにしています。基礎的なところをちゃんと理解して、高校で生物をやっていない学生でもめげずに面白いと思える。それから担当の先生も、自分が面白く出来るところを選んでやりますので、先生によってずいぶん内容が違いますね。
 残念ながら、先生の選択が出来ないんです。この先生の講義を取りたいって思っても、時間割で類ごとに割ふれれてしまうので、どの先生になるか決まっている。昔はもう少し余裕があったんですけどね。」
☆先生は『ゾウの時聞ネズミの時聞』という本を出されたり、『歌う生物学』というCDを出されたりと、ユニークな活動もしていますが、そのような活動をする理由は何ですか?
「自分が専門としてやってることで、これは大事だということは社会の常識とならなきゃいけない。幸い私は基礎科目(昔で言う教養科目)の担当です。結局、良い人間になるには良い自然の見方がないといけないわけですよ。そういう見方を提供するのが、実は自然科学なのね。昔風にいうなら自然哲学なんです。ですから、ただ新しい事実を見つけた、というだけじゃ駄目なわけです。工学だと新しい製品を作ったらみんな便利だと喜ぶ。それだけですむ。でも私は理学系の人間ですからね。理学は世界の見方を提出する、もしくはその見方を元に全世界を作る。それが創造性というものなのです。
『ゾウの時間ネズミの時間』について言えば、ああいう見方があれば世界が変わるって思ったから書いたんです。元々そういう見方を教えるのが基礎科目で最も大事なことだと思っていて、そういう講義をしているわけです。その講義録を本にしたら非常に良く売れた、非常に話題になった。日本人のものの見方を変えたんだと思っています。ただ専門に閉じこもっているだけじゃ駄目だ、と僕は思っているので。結構本を書いているわけです。
歌の方は、なにせ、昔は同世代の一、ニパーセントの人しか大学・短大には行かなかった。今では五十パーセントですけどね。つまり昔は学問をしたい人が大学に来たんですよ。ですから古風な格調高い先生に言わせれば、講義なんてつまらない方がいいと言うんです。学問をしたい人が来るのだから、わけが分かんなくてうなりながらそれでも付いてくるのが良い学生だという。でもね、今や同世代の半分が大学に来ますから、学問好きが国民の半分だったら国は減びます。学問なんか好きじゃない、手を動かしてる方が面白いって思う人間の方がまっとうな人間ですからね。
それから、今の学生は生まれたときからテレビがある。一五分間に一回コマーシャルが入って音楽が流れる。そうなると九十分もじーっと講義を聞いてることなんか、耐えられない体になっているんです。
 私は生物学者だから、自分の体にそういうリズムが刻み込まれているのなら、それに合った講義が良い講義だと考えます。つまり、コマーシャルソングのタイミングで、時々歌が入る講義。
 でも、講義で歌ってるといろいろ怒られるんだよ。そんなに学生にすり寄るべきじゃないとおっしゃる先生がおられるんです。そういう意味じゃ評判は悪いんです。すごく面白いと言ってくれる学生もたくさんいるんですけどね。
生物というのは覚えることがたくさんある科目なんですよ。物理学をやっている人は丸暗記はいけないとよく言うんけど、だけど物理学って覚えることほとんど無いのよね。つまり式をいくつか覚えたら後は応用が利く。ところが生物学はそもそも知識がなかったら考えることもできない。ですからやっぱりどうしても生物は覚えることから始めないと。
 覚えるには声に出して体で覚えるのが一番いいのね。出来るなら節をつけたほうがいい。歌にした方が楽に覚えられるんです。たくさん覚えるものがあるときは覚えやすい手段を提供してやるのがいい。このごろの文部科学省は逆ですからね。たくさん覚えさせると子供がかわいそうだからって少なくしちゃう。今度の新しい指導要領はすごく評判悪いでしょ。このままじゃ子供が馬鹿になるって。ですから僕は覚えなきゃいけないことは覚えろ、その代わり覚えやすくしてやる。これが親切ということ。教育はやっぱり親切心が必要ですよ。あのCDはちまたで話題になってますよ」
☆最後に生物の分野に関わらず、東工大生全体に対して言いたいことなどはありますか?
「東工大は単科大学ですから、人間の発想としてのバラエティーが少ないと思います。やっぱり理工系って真面目な人が多いのね。もっと視野を広く、面白味のある人間になってほしい。本をもっと読みなさいよ。もっとお喋りになった方がいいんじゃないかな。言語能力が非常に問題なところがあって、英語と国語はできないけど数学が良くできると東工大に入れるっていうのがちまたの噂で、これは困ったこと。
 もう、だまって物作れば売れる世の中じゃなくて、このごろは口先で売ってるわけです。情報なんて、言語以外の何物でもない。ですから工業大学で物を作るっていうのも、もうちょっと発想変えなくちゃいけない。東工大は脱皮しなくちゃいけない時期だと思います」

Listに戻る