抹香鯨の鉄道事故年表


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1990年8月10日 東海道新幹線架線切れ事故(負傷者なし)

概要

 1990年8月10日8時頃、静岡県の東海道新幹線静岡・掛川間で架線が切れ、ダイヤが混乱した。

原因

 台風11号の接近によるもの。

影響

 プロ野球中日ドラゴンズの選手が名古屋から東京へ移動できず、天候に関係なく試合ができるはずの東京ドームで巨人戦が中止となった。


1990年11月14日 急行陸中3号燃料切れ事故(負傷者なし)

概要

 1990年11月14日12時22分頃、岩手県和賀郡東和町のJR釜石線土沢駅構内で、盛岡発釜石行急行「陸中3号」(キハ110系気動車3両編成)が約2時間半の立ち往生。

原因

 盛岡駅での給油忘れによる燃料切れ。

影響

 情けない珍事として鉄道雑学のネタとなる。


1991年3月14日 広島新交通建設工事橋桁落下事故(死者14名・負傷者9名)

概要

 1991年3月14日14時5分頃、広島県広島市安佐南区の広島新交通システム工事現場で、架設中の鋼製橋桁1本約60トンが道路に転落し、信号停止中の自動車11台を押し潰した。

原因

 施工ミスによるもの。支えの鋼材の使い方が間違っていた。おそらく警察の指導による、道路交通を通しながらの施工が被害を拡大した。

影響

 工事で橋桁を架ける際には道路を全面通行止にすることが広まった。施工業者は被害者に約3.1億円を損害賠償。裁判で広島市の賠償責任も認定されたが、控訴審は遺族側が損害賠償の請求放棄で終了した。なお、同路線は「アストラムライン」の愛称で1994年8月20日開業。


1991年5月14日 信楽高原鐵道列車正面衝突事故(死者42名・負傷者600名以上)

概要

 1991年5月14日10時半頃、滋賀県甲賀郡信楽町の信楽高原鐵道貴生川〜紫香楽宮跡間で、京都発信楽行臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(JRキハ58系気動車3両編成・乗客約600名)と、信楽発貴生川行普通列車(信楽高原鐵道SKR100型気動車4両編成・乗客約50名)が正面衝突。

原因

 貴生川行列車が信楽駅で赤信号のまま単線区間に進入したため。その契機となった信号故障についてJR西日本と信楽高原鐵道の言い分が異なるが、JRが信楽高原鐵道に無断で設置した「方向優先てこ」と、信楽高原鐵道がJRや運輸省に知らせずに実施した信号設備改修工事の双方が設備不調の原因とされる。超満員の臨時快速に遅れ気味で速度を上げた普通列車が山間の急曲線で減速の余裕なく衝突したことで被害が拡大した。

影響

 5月26日まで開催予定の「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は事故翌日に臨時休催の後に中止。当年夏に鹿島臨海鉄道大洗駅直通臨時特急を急遽運休するなど、事故を契機にJRと旧国鉄第三セクター鉄道との乗り入れは縮小された。運輸省は中小鉄道会社の安全設備の整備を促進するための補助金を創設。信楽高原鐵道は陶芸祭と将来のために2億円をかけて整備した列車行き違いのための信号所を閉鎖し、現在に至るまで1編成が貴生川・信楽間を往復する運行スタイルに戻っている。


1992年6月2日 関東鉄道・常総線取手駅列車衝突事故(死者1名・負傷者125〜251名)

概要

 1992年6月2日8時頃、茨城県の関東鉄道常総線取手駅で、取手行の4両編成の気動車が車止めを突き破り駅ビルに衝突した。先頭車中程の乗客1名が死亡。

原因

 列車のブレーキ故障。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に十分な復元がなされず、通常・非常の両系統のブレーキが作動せず、終着駅の車止めに衝突して駅ビルに突っ込んだ。

影響

 事故前の関東鉄道常総線には、バブル経済による東京通勤圏の拡大に伴う利用者の増大に対して、旧国鉄のキハ30型中古気動車を積極的に導入していたが、事故後は新車の投入に切り替えたと見える。


1992年9月14日 成田線ダンプカー衝突事故(死者1名・負傷者67名)

概要

 1992年9月14日、千葉県香取郡下総町滑川付近のJR成田線久住〜滑川間の大菅踏切で、普通列車(JR113系電車4両編成)とダンプカーが衝突。電車の運転手1名が死亡。

原因

 最大積載量の4倍もの山砂を積んだダンプカーが、踏切に向かう緩い下り坂でブレーキが効かず、踏切待ちの車の脇から徐々に踏切内に進入したもの。

影響

 JR東日本では事故列車と同型の全車両に前面強化の工事を実施、以後に製作した新型車両には運転席後方に壊れやすい部分をつくり運転手が運転台に閉じこめられないような構造とした。ダンプカーの運転手は刑事裁判で禁固2年の実刑を受け、その運転手と荷主と砕石会社および作業員2名は民事裁判で1億円の賠償命令を受けた。なお、事故現場の踏切は後の道路立体化により廃止された。


1992年11月3日 島原鉄道列車正面衝突事故(死者1名・負傷者72〜74名)

概要

 1992年11月3日19時30分頃、長崎県南高来郡吾妻町の島原鉄道吾妻〜阿母崎間で、諫早発加津佐行列車(2000形気動車1両編成)と加津佐発諫早行列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突した。

原因

 単線区間で、諫早行列車の運転士が加津佐行列車との行き違い駅を間違えて、信号を見落としたもの。

影響

 島原鉄道は列車自動停止装置(ATS)を整備し1993年12月27日に供用開始。1993年3月のダイヤ改正で列車の交換駅をできるだけ統一した。なお、普賢岳噴火災害とこの事故は、島原鉄道への自治体出資による第3セクター鉄道化を後押ししたと思われる。


1993年8月6日 日豊本線竜ヶ水駅土砂災害(負傷者なし)

概要

 1993年8月6日19時20分頃、鹿児島県鹿児島市の日豊本線竜ヶ水駅で停車中の、国分発指宿行普通列車(キハ200系気動車2両編成)と上り列車(キハ40系気動車2両編成)を、土石流が押し潰した。乗員乗客約330名は全員が平行する国道方面に避難しており無事。なお、その後に国道を襲った土砂災害による死傷者は出ている。

原因

 集中豪雨によるもの。鹿児島はこの年の6月から9月にかけて記録的な長雨と豪雨に見舞われ、各地で土砂災害が頻発していた。8月6日の豪雨は、鹿児島市が一部水没し日豊本線や国道10号線を数十箇所で寸断する大規模なものであった。

影響

 JRの乗務員の的確な判断が乗客の命を救ったとして、その美談が何度も何年もテレビで紹介され続ける。JR九州は豪雨時の列車運転規制に「実効雨量」「3時間雨量」の考えを取り入れた。日豊本線は9月18日まで不通。気動車3両が廃車。


1993年10月5日 大阪市交通局・ニュートラム衝突事故(負傷者215〜217名)

概要

 1993年10月5日、大阪府の大阪市交通局南港ポートタウン線住之江公園駅で、住之江公園行列車が停車せず車止めに衝突した。

原因

 自動運行システムの誤作動が原因と思われる。同線は新交通システムの路線で集中制御の無人運転を実施していた。故障時には列車の運行が止まるはずが、何らかの理由で運行を止められなかった模様。

影響

 事故後は全線でバス代行輸送を実施、11月19日に有人運転で運行再開、2000年2月から無人運転を再開した。他の無人運転の新交通システムでも一時的に運転士や添乗員を付けた。


1994年2月22日 三陸鉄道脱線転覆事故(負傷者5名)

概要

 1994年2月22日15時20分頃、岩手県の三陸鉄道南リアス線甫嶺(ほれい)〜三陸間で、盛発久慈行列車(36型気動車2両編成・乗員2名乗客5名)が脱線転覆し、築堤から水田に転落した。

原因

 悪天候に伴う強風によるもの。

影響

 三陸鉄道は全線で風速計、雨量計、防風壁、列車無線を整備した。車両2両は廃車。


1994年2月22日 特急おおぞら号脱線転覆事故(負傷者7〜28名)

概要

 1994年2月22日17時45分頃、北海道のJR北海道石勝線トマム〜新得間の広内信号所付近で、釧路発札幌行特急「おおぞら10号」(183系気動車7両編成・乗員2名乗客341名)の前3両が脱線し、先頭車が転覆した。

原因

 悪天候に伴う強風によるもの。現場付近の風速計の故障を半年間放置し、状況が把握できない中で徐行運転を実施したからという指摘がある。

影響

 現場付近の線路風上側に防風柵を設置した。風速計の管理も見直し。


1994年12月18日 一畑電鉄運転士転落事故(負傷者1名)

概要

 1994年12月18日11時頃、島根県松江市の一畑電鉄北松江線松江温泉駅付近で、松江温泉発電鉄出雲市行列車(電車4両編成・乗員2名乗客14名)の運転士が列車から転落した。運転士が軽傷。

原因

 電車の揺れで運転席から線路に落ちたらしい。電車が加速しないため、窓から身を乗り出してパンタグラフを確認していた模様。私見で、経営難のローカル私鉄なので、線路や車両の老朽化も一因だろう。

影響

 珍事としてたまに振り返られる。


1995年3月20日 「地下鉄サリン事件」(死者12名・負傷者約5,500名)

概要

 1995年3月20日8時過ぎ、東京都の営団地下鉄の、日比谷線北千住発中目黒行、日比谷線中目黒発東武動物公園行、丸ノ内線池袋発荻窪行、丸ノ内線荻窪発池袋行、千代田線我孫子発代々木上原行の各列車内で、数千名の毒ガス「サリン」被害者が発生した。

原因

 カルト宗教団体による組織犯罪。国の省庁の始業時間に合わせて、その中心駅である霞が関駅に到着する電車に信者5名が分乗、車内で毒ガスを拡散した。

影響

 同団体のその他の犯罪も含め代表や幹部14名に逮捕状、刑事裁判で死刑を含む有罪判決。被害者や遺族42名の民事訴訟でも損害賠償の和解成立。史上初の毒ガスを使った無差別殺人に世界の治安当局が震撼した。地下鉄駅からごみ箱が消え、警察や救急に毒ガス被害に対処する態勢が整備された。


1995年12月27日 JR東海・三島駅乗客転落事故(死者1名)

概要

 1995年12月27日18時30分頃、静岡県のJR東海東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行「こだま475号」(0系電車16両編成)の6号車ドアに指を挟まれた高校生が列車に引きずられてホーム下に転落、死亡した。

原因

 列車の車掌とホームの係員が高校生の指挟みに気が付かず、ドアの隙間がわずかであったため運転席の戸閉ランプが点灯することで運転士も気が付かず、列車が発車したもの。個人的考察として、通過列車の待避中にホーム上の公衆電話を利用した被害者が列車に乗り遅れまいと危険な駆け込み乗車をしたことが主因と思え、むしろ列車往来妨害に問われるのではと思えてならない。

影響

 JR東海は同型電車のドアの閉まる力を調整、三島駅ではホームに照明を増設した。それまで鉄道側の責による新幹線の利用者の死亡事故は皆無であったが、この事故以降は「列車内の乗客の死亡事故は皆無」「運転死亡事故は皆無」のような表現としている。


1996年6月26日 JR東海・高山本線特急落石衝突事故(負傷者16〜17名)

概要

 1996年6月26日21時20分頃、岐阜県のJR東海高山本線焼石〜下呂間で、名古屋発高山行特急「(ワイドビュー)ひだ15号」(85系気動車5両編成)が落石に衝突、先頭から2両が脱線した。

原因

 大雨による落石が線路上にあったため。列車の速度が低かったことと飛騨川への転落を免れたため被害は大きくならなかった。

影響

 被害が大きい近年の落石事故として、同種の事故の発生の度に新聞等で紹介される。先頭車1両が廃車。同種の事故は全国で発生しているが、非現実的な大規模投資以外に根本的な解決策がないため、引き続き落石の防止や早期発見についての投資や研究が進められている。


※2004年3月2日補訂:車両形式の訂正

1996年11月18日 ユーロトンネル列車火災事故(負傷者あり?)

概要

 1996年11月18日、イギリス・フランス国境のユーロトンネル(英仏海峡トンネル)内で走行中のカートレイン列車(28両編成)で列車火災が発生した。トラック運転手などの乗客は避難し犠牲者なし。

原因

 貨車に乗っていた冷凍トラックの電気火災。

影響

 トンネルの設備が焼け火災の高熱によりコンクリートが痛んだため、復旧に7か月を要した。その間は単線で運転。


1997年5月6日 山陽新幹線岡山運転所列車冒進事故(負傷者なし)

概要

 1997年5月6日2時5分頃、岡山県のJR西日本山陽新幹線岡山新幹線運転所の構内で、入換作業中の列車(0系新幹線電車12両編成)が車止めに衝突し破壊、市道にはみだし約40メートル先で停止した。

原因

 運転士の居眠り運転とされる。運転士の長時間勤務や、車止めの位置など運転所構内の施設配置に問題があったとの指摘もある。

影響

 2005年3月現在で、山陽新幹線唯一の列車脱線事故とされる。


1997年8月12日 東海道本線列車追突事故(負傷者43名)

概要

 1997年8月12日23時18分頃、静岡県のJR東海東海道本線沼津〜片浜間で、停止中の下り貨物列車(電気機関車+コンテナ貨車17両)に後続の三島発静岡行普通列車(電車4両編成)が追突した。

原因

 貨物列車は踏切支障報知装置の作動により停止していた。普通列車は停止信号で一旦停止、無閉塞運転のマニュアルに沿って1分間停止の後に運転を再開、その際に規定の時速15キロ以下を超えて時速76キロまで加速し、貨物列車の発見後のブレーキが間に合わなかった。

影響

 JR東海で無閉塞運転の取扱が廃止された。


1997年10月12日 中央本線大月駅列車衝突事故(負傷者62〜63名)

概要

 1997年10月12日、山梨県のJR東日本中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行特急「スーパーあずさ13号」(E351系電車12両編成)の側面に回送列車(201系電車6両編成)が突っ込んだ。回送電車の先頭2両と特急電車の中間5両が脱線、うち1両は横転。

原因

 回送列車の運転手の信号無視によるもの。しかも列車自動停止装置(ATS)のスイッチを切っていた。

影響

 中央線は一日半不通。事故で「スーパーあずさ」用の電車が足りなくなり、翌年7月まで一部列車を旧型電車で代替運転し所要時間が増大した。特急電車5両は車体新造。JR東日本は乗務員の訓練を目的に一台3億円の新型シミュレータを開発し全支社に配備。運転台のATSスイッチにカバーをかけた。


1997年11月16日 JR東日本・全新幹線大幅遅延事故(負傷者なし)

概要

 1997年11月16日13時13分頃、埼玉県の上越新幹線大宮〜熊谷間で、越後湯沢発東京行「Maxたにがわ440号」が停電で約2時間半停車。その運行再開後に東北・山形・秋田・上越・長野の各新幹線で運行障害が発生、列車の運休や最大約8時間半の遅れが出た。翌日も百本以上の列車が運休。

原因

 新幹線の運行管理システムのトラブルによるもの。集中管理で操作するポイントや信号が切り替わらず、列車が動けなかった。

影響

 おそらくシステムの見直しがなされたものと思っていたが、2005年8月16〜17日の東北新幹線でも同種のトラブルが発生しているため、対策は十分でないか行われなかった模様。


※2005年8月17日補訂:影響文の手直し

1998年1月8日 東海道線雪害乗客閉じ込め事故(負傷者なし?)

概要

 1998年1月8日夜から翌日未明にかけて、JR東日本の東海道線が不通となり、駅間で大勢の乗客が最大約6時間、電車の中に閉じ込められた。

原因

 直接には8日午後から首都圏を襲った大雪のためだが、JRの運行管理の不手際により駅のホームが列車で埋まり、多くの列車を駅間の線路で動けなくした。近隣他私鉄も雪害の影響を受け運休が相次いだが、乗客の閉じ込め事故は起こらなかった模様。

影響

 JR東日本は首都圏で大雪が予想された際に、あらかじめ列車の本数を間引くことで駅間に電車を止めないようにした。


1998年1月20日 ゆりかもめ保線作業員死亡事故(死者1名)

概要

 1998年1月20日14時50分頃、東京都港区台場のゆりかもめ軌道内で電気設備の点検中の作業員が列車にはねられ死亡した。

原因

 何らかの要因で接近する列車に気が付かず接触したものと思われる。

影響

 非常に珍しい、全駅ホームドア装備の新交通システムでの人身事故として語られる。


1998年6月11日 土佐くろしお鉄道・中村線列車衝突事故(負傷者38〜40名)

概要

 1998年6月11日10時頃、高知県の土佐くろしお鉄道中村線西大方〜古津賀間で、停車中の窪川発宿毛行列車(気動車1両編成)に中村発の救援列車(気動車1両編成)が衝突した。

原因

 救援列車の速度超過が主因と思われる。宿毛行列車が故障で立ち往生したため救援列車が仕立てられたものの、徐行が原則のはずが時速約60キロで運行され、曲線の先に止まっていた列車に気付いてからでは停止できなかった模様。

影響

 土佐くろしお鉄道では6月11日を安全の日として救援訓練を実施することとした。


1998年6月3日 ドイツ・エシュデICE脱線転覆事故(死者98〜101名・負傷者80〜87名)

概要

 現地時間1998年6月3日11時頃、ドイツ・ニーダーザクセン州エシュデ村で、ICE(ICE1系・機関車+客車12両+機関車)の中間車が脱線し、時速約200キロで線路をまたぐ道路橋の橋脚に激突、道路橋が崩壊し後続車両が次々に衝突大破した。乗客に加え橋上の作業員2名も死亡。

原因

 防振と防音を目的に車軸と車輪の間にゴムを挟んだ構造の車輪(弾性車輪)が破損したため。

影響

 ドイツ鉄道は同形式全車両の運行を停止、車輪を通常の一体型に交換した。日本国内では路面電車を除き弾性車輪は使用されていない。世界初の高速旅客鉄道の重大事故として歴史に刻まれる。


1999年2月21日 山手貨物線保線作業員死亡事故(死者5名)

概要

 1999年2月21日0時15分頃、東京都品川区西五反田の通称「山手貨物線」目黒・五反田間で、線路内で信号ケーブルの交換作業をしていた保線作業員が臨時回送列車にはねられた。全員が死亡。

原因

 工事責任者が当日の列車ダイヤを確認していなかったため。

影響

 JR東日本では線路閉鎖のない線路内作業を全面的に禁止した。


1999年6月27日 山陽新幹線福岡トンネルコンクリート落下事故(負傷者なし)

概要

 1999年6月27日9時25分頃、福岡県の山陽新幹線小倉〜博多間の福岡トンネル内でトンネルの壁のコンクリート約220kgがはく落、新大阪発博多行「ひかり351号」(0系新幹線電車12両編成)の9号車の屋根を直撃した。

原因

 コールドジョイントと言われる施工不良個所の存在により、コンクリートの一体性が損なわれたもの。山陽新幹線の突貫工事が遠因とされる。

影響

 施工業者は損害賠償を要求された。JR西日本は約1か月かけて緊急に山陽新幹線全142トンネルの点検補修を実施したが、10月9日には小倉・博多間の北九州トンネルで約226キロのコンクリートが落ちるなど、山陽新幹線を含む各地の高架橋やトンネルで同種の事故が次々に発生、その最初の大きな事故として歴史に刻まれることとなった。コンクリート構造物の老朽化問題が社会問題として認識され、補修技術の進化や専門資格の創設などの契機となった事故。


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