抹香鯨の鉄道事故年表

 当ウェブページは、過去に発生し日本国内で大きな反響または影響を残した鉄道に関する事故について、簡単な概要などを発生年月日順に列記するものです。紹介する事故について、明確な選択基準はありません。個人的に活字媒体で見る機会が多いもの、後の鉄道や世間に何らかの影響を残したと思われるものなどを、適当に取り上げています。

 これは、2003年8月時点でWWW上に鉄道事故の一覧表が存在しない現状を鑑み、まずはそのリストだけでもまとめておこうと考えて制作したものです。そのため、内容の厳密さより事故の日時と簡単な概要だけを紹介すれば良いものとし、内容の厳密なチェックを省いているため、意図的に、技術的に不正確な記述をしています。個々の事故についての深い情報や考察は、他のウェブサイトや文献をご参照ください。見栄えや読みやすさも全く考慮していません。内容の誤りがございましたら、メールや掲示板で指摘していただけると助かります。

 当ページはリンクフリーです。転載および加工も自由です。雑誌やサイト上での紹介も承諾や連絡は不要です。当ページの内容について作者は一切の責任を持ちません。なお、作者への連絡は[ 掲示板 ]画面最下部にボタンがある「管理者へメール」機能をご利用下さい。

※死傷者数について
 各事故の死傷者数は文献により差異があることが多いため、当ページではその最大数と最小数を記載することとします。公式な事故報告書があれば、その数字に訂正します。

 収録数の増によりさらにページを分けました。
1830〜1939年※2003/8/7開設
1940〜1959年※2004/3/4開設
1960〜1979年(このページ)※2003/10/22開設
1980〜1999年※2003/10/22開設
2000〜2006年※2004/3/4開設

 2004年10月に[ 掲示板 ]を移転し、旧掲示板は閉鎖しました。

※このページの更新履歴
(2005年5月6日)
  • 1976年9月4日 国鉄「京阪100年号」撮影者死亡事故
    (2005年3月5日)
  • 1975年2月 ロンドン地下鉄ミステリー事故 ※削除
    (2005年1月13日)
  • 1973年12月26日 関西本線平野駅電車脱線転覆事故
    (2004年10月29日)
  • 1972年7月 土讃本線繁藤駅土砂崩れ事故
    (2004年2月23日)
  • 1979年1月 サンフランシスコ列車火災事故
  • 1978年2月 営団東西線突風脱線事故
  • 1977年3月 上越線急行落石衝突事故
  • 1976年10月 函館本線貨物列車脱線事故
  • 1975年10月 信越本線電気機関車転落事故
  • 1975年2月 ロンドン地下鉄ミステリー事故
  • 1972年3月 総武緩行線電車追突事故
  • 1971年10月 近鉄特急正面衝突事故
    (2003年12月9日)
  • 1976年4月 追分機関区扇型機関車庫火災
    (2003年11月22日)
  • 1970年4月 天六ガス爆発事故
    1961(昭和36)年
    ●1961年1月17日 小田急線電車多摩川転落事故(負傷者21名)

    (概要) 1961年1月17日17時25分、東京都の小田急電鉄小田原線和泉多摩川・登戸間の踏切で、向ヶ丘行列車(電車4両編成)とダンプカーが衝突、先頭車1両が多摩川橋梁から河川敷に転落し、もう1両が斜めに傾いた。ダンプカーの運転手は死亡。

    (原因) ダンプカーの踏切無視によるもの。電車は各駅停車で2駅先が終点のため乗客が少なく、被害が抑えられた。

    (影響) 電車が橋から落ちた事故として、小田急ファンの間で時々話題になる。
    ●1961年8月29日 羽越線列車転落事故(死者2名・負傷者12名)

    (概要) 1961年8月29日20時55分、新潟県の国鉄羽越本線新津・京ヶ瀬間で、下り列車(C57形式蒸気機関車+客車5両)が踏切でトレーラーと衝突、阿賀野川橋梁のトラス橋を破壊し、機関車と客車2両が橋桁ごと川に転落した。機関車の乗務員2名が死亡。

    (原因) トレーラーの踏切無視によるもの。

    (影響) 被害の大きい踏切事故として羽越線史に刻まれる。
    ●1961年12月29日 山陽本線列車追突事故(負傷者50名)

    (概要) 1961年12月29日12時頃、山口県の山陽本線小野田・西宇部間で、停止中の下り特急列車(C62形式蒸気機関車+20系客車14両編成)に後続の列車(気動車5両編成)が追突した。

    (原因) 雪害による信号故障で隔時法による運行をしていたため。隔時法とは信号の故障時に一定間隔で列車を出す運行方法で、列車運行中の安全は目視のみに頼るため、運行確保の最終手段として用いられてきた。

    (影響) 隔時法を廃止した。

    1962(昭和37)年
    ●1962年5月3日 「三河島事故」(死者160名・負傷者296名)

    (概要) 1962年5月3日21時37分、東京都の常磐線三河島駅構内で、下り貨物列車(D51形式蒸気機関車+貨車45両)が安全側線に進入し、機関車と貨車1両が脱線、直後に下り本線を支障したところに後続の下り列車(電車6両編成)が接触し先頭2両が脱線し上り本線を支障、6分後に上り列車(電車9両編成)が接触し先頭4両が脱線大破した。

    (原因) 貨物列車の運転士が信号を見落とし、下り列車の乗務員が列車防護を取らなかったためとされる。列車防護とは二次災害の防止を目的に事故現場付近に他の列車が入らないようにする措置で、古くは信号雷管や信号炎管、最近では列車防護スイッチや防護無線など、各種の方法がある。なお、下り列車の乗客は接触後に電車のドアコックを操作して線路内に降り、駅まで歩いていたところを上り列車が次々に跳ね飛ばした。この事故では、1913年の東岩瀬事故で整備された安全側線と、1951年の桜木町事故で整備されたドアコックが、被害を拡大してしまった。

    (影響) 国鉄は全国全線全列車へのATS(列車自動停止装置)取付を決定、1966年4月までに全線区で整備された。各車への信号炎管や防護装置の設置や安全側線の改良も推進された。また、1963年6月に鉄道労働科学研究所が設置され、人間工学面での事故防止研究が本格的に開始された。日本の鉄道史に残る大惨事として社会史に刻まれる。
    ●1962年7月20日 鹿児島本線列車追突事故(負傷者66名)

    (概要) 1962年7月20日9時50分頃、佐賀県の鹿児島本線鳥栖・肥前旭間で、停車中の下り列車(C57形式蒸気機関車+客車4両)に後続の下り列車(421系電車4両編成)が追突、後続列車の先頭車が脱線した。

    (原因) 信号工事のため通信式閉塞法で列車を運行していたが、鳥栖駅の運転掛が先行列車の次駅到着を待たずに後続列車を発車させたもの。通信式閉塞法は鉄道開業時に使われた、閉塞区間の両端の駅員が電話や電信で運行を管理する方法で、当時も臨時に使用されることがあった。

    (影響) 通信式閉塞法を廃止した。

    1963(昭和38)年
    ●1963年11月9日 「鶴見事故」(死者161〜162名・負傷者120名)

    (概要) 1963年11月9日21時51分、神奈川県の東海道本線鶴見・新子安間で、下り貨物線を走行中の下り貨物列車(EF15形式電気機関車+貨車45両)の貨車3両が脱線して上り旅客線を支障、直後に上り旅客線を走行中の東京行列車(70系電車12両編成)が貨車に衝突して電車3両が脱線、下り旅客線を走行中の久里浜行電車(70系電車12両編成)の側面に衝突した。

    (原因) 「競合脱線」と呼ばれる貨車の自然脱線によるもの。各列車の運転士や乗務員に不正や不手際はなく、線路や貨車の欠陥も認められなかった。

    (影響) 競合脱線の現象解明と防止のために「技術専門委員会」を設置、北海道の廃線路で本物の貨車を転覆させるなど、5年間に渡り研究と試験を実施、その成果を基に車両の車輪形状の変更や台車の改良や、線路への脱線防止ガードの設置など様々な対策が施され、後の鉄道貨物衰退もありこの種の脱線はほぼ根絶された。日本の鉄道史に残る大惨事として社会史に刻まれる。

    1964(昭和39)年
    ●1964年3月29日 名鉄新名古屋駅電車追突事故(負傷者143名)

    (概要) 1964年3月29日9時55分、愛知県名古屋市の名古屋鉄道名古屋本線新名古屋駅構内で、停車中の新木曾川行急行列車(電車4両編成)に後続の新鵜沼行特急列車(電車4両編成)が追突した。

    (原因) 特急列車の運転士の見込み運転による停止信号通過によるもの。

    (影響) 名鉄が自動列車停止装置(ATS)の採用を決定した。昔も今も新名古屋駅には名鉄各線の電車が集まるが、拡張が不可能な地下駅であるため、わずか3面2線の設備で神業的に列車をさばいている。

    1965(昭和40)年
    1966(昭和41)年
    ●1966年4月25日 東海道新幹線車軸折れ事故(負傷者なし)

    (概要) 1966年4月25日19時頃、愛知県の東海道新幹線名古屋・豊橋間で、走行中の新大阪発東京行「ひかり42号」(0系新幹線電車12両編成)の最後尾車両が異常振動し、豊橋駅過ぎで停車した。

    (原因) 車軸が折れたもの。工場での製造中の停電により不良箇所が発生したと見られる。

    (影響) 品質管理の徹底が図られた。また、新幹線の重大事故のひとつとして記録される。
    ●1966年11月18日 東北本線貨物列車脱線転覆事故(負傷者なし)

    (概要) 1966年11月18日、東北本線新田駅構内で上り貨物列車(ED75形式電気機関車+貨車34両)の機関車と貨車19両が脱線転覆した。

    (原因) 機関士の運転ミスで、25km/h制限の分岐器を推定50km/hで通過したため。

    (影響) 自動列車停止装置(ATS)に、列車速度と分岐器制限速度を照合する機能が追加された。

    1967(昭和42)年
    ●1967年8月8日 新宿駅構内貨物列車衝突事故(負傷者なし)

    (概要) 1967年8月8日1時45分頃、東京都の国鉄新宿駅構内で、下り貨物列車(EF15形式電気機関車+貨車18両)の側面に、上り貨物列車(EF10形式電気機関車+貨車20両)が衝突、下り貨物列車のジェット燃料タンク車が上り列車の機関車と共に炎上した。

    (原因) 上り貨物列車の機関士のブレーキ操作遅れによるもの。

    (影響) 大都会の車両火災で大きく取り上げられた。中央線は終日運休。自動列車停止装置(ATS)に確認扱い後の注意喚起の機能を追加、具体的には確認ボタンを押してベル音を消しても列車停止までキンコン音が鳴り続けるようにした。

    1968(昭和43)年
    ●1968年1月27日 日比谷線回送列車火災事故(負傷者なし)

    (概要) 1968年1月27日12時40分、営団日比谷線六本木・神谷町間で、北千住方面行回送電車(東武2000系電車6両編成)から出火、1両を全焼し2両が半焼した。

    (原因) 電車の床下機器の異常から出火したものと見られる。車両の不調のため手前の六本木駅で乗客全員を降ろしていたことで惨事を防止できた。

    (影響) 地下鉄車両の難燃度基準が強化された。地下鉄の事故や火災やその特集が組まれる度に引用される。
    ●1968年7月16日 中央線御茶ノ水駅電車追突事故(負傷者210名)

    (概要) 1968年7月16日22時38分、東京都の国鉄中央線御茶ノ水駅構内で、停車中の下り高尾行列車(101系電車10両編成)に後続の東京発下り列車(101系電車10両編成)が追突した。

    (原因) 後続列車の運転士の運転ミスによるもの。現場は急曲線かつ急勾配で、停車列車の確認が遅れブレーキが間に合わなかった。

    (影響) 線形の悪い難所での事故として、駅の紹介時によく引用される。

    1969(昭和44)年
    1970(昭和45)年
    ●1970年4月8日 天六ガス爆発事故(死者79名・負傷者311〜420名)

    (概要) 1970年4月8日17時過ぎ、大阪府大阪市北区天神橋6丁目の大阪市営地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅の工事現場でガス爆発事故が発生、道路約150mが陥没、沿道の建物が炎上し、近隣住民や工事関係者が多数犠牲に。

    (原因) 工事現場内の地中管からガスが漏れて引火爆発したもの。

    (影響) ガス管の吊り防護を基本的に廃止するなど、その後の地下鉄工事での安全対策が強化された。大阪万博ガスパビリオンが翌日一日休館。

    1971(昭和46)年
    ●1971年2月11日 東北本線列車追突事故(負傷者40名)

    (概要) 1971年2月11日2時52分、栃木県の東北本線野崎・西那須野間で、下り仙台・会津若松行急行列車(EF58形式電気機関車+客車13両)が停止ののち下り勾配で後退、後続の下り貨物列車(EF15形式電気機関車+貨車41両)と衝突した。

    (原因) 急行列車の運転士の居眠り運転によるもの。列車後退時に他の乗務員が気が付かなかったことも原因。急行列車の後部車両が郵便車であったことと速度が遅かったことで被害は大きくならなかった。

    (影響) 不思議な事故として語り継がれる。
    ●1971年3月4日 富士急電車逸走事故(死者14〜17名・負傷者68〜72名)

    (概要) 1971年3月4日8時20分、山梨県の富士急行線暮地・三ツ峠間の踏切で、大月行急行列車(電車2両編成)の側面にトラックが衝突、列車は下り勾配を約4km暴走した後に脱線転覆した。

    (原因) 踏切事故で列車のブレーキが破損し止まれなくなったもの。

    (影響) ブレーキ装置のシステムの見直しが実施された。不運かつ悲惨な踏切事故として語り継がれる。
    ●1971年10月25日 近鉄特急正面衝突事故(死者25名・負傷者218〜255名)

    (概要) 1971年10月25日15時58分頃、三重県一志郡白山町の近鉄大阪線榊原温泉口・東青山間の総谷トンネル西側入口で、上本町発名古屋行特急列車(電車4両編成)と賢島発近鉄難波・京都行特急列車(電車7両編成)が正面衝突した。

    (原因) 下り勾配で名古屋行特急列車のブレーキが効かなかったため。整備不良による自動列車停止装置(ATS)の誤動作により、東青山駅手前で列車が自動停止した。ここで、ブレーキの解除ができないので、運転手が車輪止めをかけて手動で解除したが、復旧の作業をせず、一方で駅係員が車輪止めを撤去してしまう。約120km/hで暴走中に榊原温泉口・東青山間の垣内信号所の安全側線に進入したが車止めを破壊しトンネル入口の壁に激突、直後に対向列車が衝突した。

    (影響) 近鉄は同区間の複線化を決定、翌年に着工され1975年に完成した。

    ※2004年3月3日補訂:内容の詳細化
    ※2005年1月13日補訂:事故原因の整理と書き直し

    1972(昭和47)年
    ●1972年3月28日 総武緩行線電車追突事故(負傷者758名)

    (概要) 1972年3月28日7時21分頃、千葉県船橋市の総武本線船橋駅で、駅構内信号故障で停車中の下り緩行線列車(103系電車10両編成)に後続の下り緩行線列車(103系電車10両編成)が追突した。

    (原因) 後続列車の運転手の信号確認ミスによるもの。朝の通勤時間帯のため乗客が多く多数の負傷者が出た。

    (影響) 負傷者数で国内最悪の事故とされるが、あまり紹介例はない。
    ●1972年7月5日 土讃本線繁藤駅土砂崩れ事故(死者60名)

    (概要) 1972年7月5日6時45分頃、高知県香美郡土佐山田町の土讃本線繁藤駅で、停車中の高松発高知行列車(DF50型ディーゼル機関車+客車3両)が土砂崩れにより新改川へ押し流された。犠牲者数には乗客の他に住民や消防団員などが含まれる。

    (原因) 集中豪雨により高さ100m幅200mに渡り山の斜面が崩れたもの。事前に一人が生き埋めになる崩壊があり、その救出作業中に大きな崩壊が発生した。

    (影響) 消防団員が大規模崩壊を予測できたか否か、自然災害で行政の責任を問う全国初の裁判となり、地裁で人災、高裁で天災の判決が出た後、19年後の1991年9月に最高裁で和解。高知県の防災行政が見直された。県内では「繁藤災害」で通る。
    ●1972年11月6日 北陸トンネル急行「きたぐに」火災事故(死者30名・負傷者714名)

    (概要) 1972年11月6日1時9分、福井県の国鉄北陸本線敦賀・今庄間の北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行急行「きたぐに」(機関車+客車15両)の食堂車で火災が発生、乗客の多くが煙に巻かれた。

    (原因) 火災そのものの原因は不詳。火災発生後、当時のマニュアルに従って一旦停止し火災車両の切離隔離を試みたもの停電により失敗、延長約14キロの長大トンネルの暗闇内に乗員乗客が取り残され被害が拡大した。

    (影響) 事故を受けて国鉄は全国で一般形式の客車食堂車の連結を中止、トンネル内での火災発生時には停車せず全力でトンネルを抜けるよう基準規程を改訂した。客車の防火基準も強化。重大事故として鉄道史や福井県史に刻まれる。

    1973(昭和48)年
    ●1973年3月13日 「上尾事件」(負傷者あり?)

    (概要) 1973年3月13日朝、埼玉県の高崎線上尾駅で利用者が暴徒化し鉄道施設を破壊した。

    (原因) 国鉄職員の順法闘争でダイヤが乱れ通勤電車の積み残しが発生していたところに、上り列車が急行型の扉の少ない電車で来たことで、利用者の堪忍袋の緒が切れた模様。順法闘争とは列車の運行に際し過剰なまでの安全確認を実施し列車を遅延させるもの。

    (影響) 国鉄への信頼がますます失われた。
    ●1973年3月21日 「鳥飼事故」(負傷者なし)

    (概要) 1973年3月21日17時頃、大阪府摂津市の東海道新幹線京都・新大阪間にある新幹線大阪運転所(通称「鳥飼基地」、現在の大阪第一運転所)で、回送列車(0系新幹線電車16両編成)が分岐器の進行方向が本線側の状態で下り出庫線から下り本線に進入。引き返す課程で先頭車1両が分岐器上で脱線した。

    (原因) 回送列車が何らかの理由で止まらなかったもの。信号や車両の不調か運転士のミスかは不明。運転士は分岐器の方向の異常を見てブレーキを扱ったが止まれなかった。回送列車が下り出庫線の絶対停止区間(50メートル)に入った時点で本線に停止信号が出て、走行中の下り「こだま号」がATCにより停止、衝突は免れた。

    (影響) 2003年8月現在、新幹線の営業時間内の本線上での唯一の重大運転事故として、新幹線史に刻まれると共に、新幹線の安全性を疑問視する文献や論文では必ず引用されている。
    ●1973年12月26日 関西本線平野駅電車脱線転覆事故(死者3名・負傷者149〜156名)

    (概要) 1973年12月26日8時12分頃、大阪府大阪市の関西本線平野駅の構内で、湊町(現在のJR難波)発奈良行普通列車(113系電車6両編成)のうち2両が脱線し先頭車1両が転覆した。

    (原因) 運転手が各駅停車を平野駅通過の快速列車と勘違いし、高速で分岐器を通過したため。

    (影響) 先頭車1両が廃車。運転手の勘違いを防ぐため、関西本線では電車を快速列車用と各駅停車用に分けて混用しないようにした。また、高密度運転路線での警報の頻発と確認扱いの常態化、確認扱い後の運転は運転手の注意力のみに頼るという、自動列車停止装置(ATS)の問題点が指摘され、1974年から1987年まで新型ATSの長期試験が実施された。

    1974(昭和49)年
    1975(昭和50)年
    ●1975年10月28日 信越本線電気機関車転落事故(負傷者3名)

    (概要) 1975年10月28日6時20分頃、信越本線横川・軽井沢間の上り線で、軽井沢発横川行回送列車(EF62形式電気機関車2両+EF63形式電気機関車2両)が脱線し全車が築堤下に転落した。乗務員が負傷。

    (原因) 下り勾配で速度が出過ぎてブレーキが効かなかったため。同区間は6.67%の国鉄最急勾配路線で、通過列車に必ず連結される電気機関車には特殊なブレーキ装置が備わっていたが。

    (影響) 保安対策の見直しと乗務員への指導徹底が図られた。木々をなぎ倒し重量級電気機関車が4両も転がる事故写真が撮影されており、鉄道名所である同区間を特集する記事によく引用された。「横軽」電気機関車粘着運転時代唯一の大事故として刻まれる。蒸気機関車時代と電気機関車アプト式時代にも1回ずつ大事故が発生している。なお、同区間は長野新幹線の開業に伴い1997年9月30日限りで廃止。

    ※2004/3/2補訂:原因と影響の文面を一部変更。

    1976(昭和51)年
    ●1976年4月13日 追分機関区扇型機関車庫火災(負傷者なし)

    (概要) 1976年4月13日23時45分頃、北海道勇払郡追分町の国鉄追分機関区で火災が発生、木造扇形機関車庫1棟とその中にいた蒸気機関車5両・ディーゼル機関車8両が全焼した。

    (原因) 電気溶接工事の火花がくすぶり発火したと思われる。

    (影響) 国内最後のSL列車を牽引し、地元や東京で保存予定であった蒸気機関車が、代替の最新鋭ディーゼル機関車と共に失われた。
    ●1976年9月4日 国鉄「京阪100年号」撮影者死亡事故(死者1名)

    (概要) 1976年9月4日16時30分頃、大阪府茨木市の国鉄東海道本線千里丘・茨木間で、大阪発京都行記念SL列車「京阪100年号」(C571蒸気機関車+12系客車9両編成)が男子小学生1名をはねた。乗員乗客にけが人なし。

    (原因) 男子小学生が線路に立ち入ったため。当時は空前のSLブームで、沿線には十万人の人出があった。

    (影響) 列車は高槻駅でSLを切り離し電気機関車の牽引で運転。国鉄は大都市でのSL復活運転を取りやめた。なお、牽引機は今も山口線「SLやまぐち号」で現役。
    ●1976年10月2日 函館本線貨物列車脱線事故(負傷者2名)

    (概要) 1976年10月2日4時30分頃、北海道の国鉄函館本線駒ヶ岳・姫川(信号所)間で下り貨物列車(DD51形式ディーゼル機関車+貨車41両)の機関車と車掌車を除く貨車40両が脱線した。

    (原因) 運転手の居眠り運転による速度超過。

    (影響) 脱線両数日本最多の鉄道事故とされるが、紹介例は少ない。なお、国内旅客列車の最大両数は16両であるため、たとえ全車が脱線してもこの事故を超えることはできない。

    1977(昭和52)年
    ●1977年3月8日 上越線急行落石衝突事故(死者1名・負傷者111名)

    (概要) 1977年3月8日20時30分、群馬県沼田市の上越線津久田・岩本間で、上野発新潟行急行「佐渡3号」(165系電車12両編成)が落石に衝突、先頭車が線路脇の国道に転落するなど4両が脱線した。

    (原因) 線路上に約30tもの巨石が落ちていたため。

    (影響) 被害の大きい落石事故として上越線史に刻まれる。国は翌年度に防災補助金制度を新設した。

    1978(昭和53)年
    ●1978年2月28日 営団東西線突風脱線事故(負傷者21〜23名)

    (概要) 1978年2月28日21時34分、東京都江東・江戸川区境の営団東西線南砂町・葛西間の荒川橋梁で、下り列車(営団5000系電車10両編成)の後部3両が脱線、うち2両が横転した。

    (原因) 電車が橋梁上で突風にあおられたもの。橋の構造が下路連続トラスで鋼材が柵の役割を果たし、電車が川へ転落せず人的被害が抑えられた。

    (影響) 橋梁破損のため同区間は長期間不通。世にも珍しい地下鉄電車の横転事故としてよく振り返られる。

    1979(昭和54)年
    ●1979年1月17日 サンフランシスコ列車火災事故(死者1名・負傷者56名)

    (概要) 1979年1月17日18時頃、サンフランシスコ湾域高速鉄道「BART」オークランド線の海底トンネル内で、列車(電車7両編成)に火災が発生、5両を全焼した。消火活動の消防士1名が死亡。

    (原因) 電気のショートによるもの。車両の内装材に燃えやすく燃焼で有毒ガスが発生する材料が使われていたと見られる。

    (影響) 電車の先頭車に避難用の貫通扉が付けられた。日本でも地下鉄を走る車両には設置が義務づけられている。