| 抹香鯨の鉄道事故年表 |
TOP > 1950〜1959年 1951年4月24日 「桜木町事故」(死者106名・負傷者92名)概要1951年4月24日13時40分頃、国鉄「京浜線」(現在のJR東日本根岸線)横浜・桜木町間で桜木町行列車(63系電車5両編成)に火災が発生、先頭車1両が全焼し隣の1両にも延焼した。 原因架線工事ミスにより垂れ下がった架線と車体が接触し発火したもの。中段固定の三段窓、内開きの貫通扉(隣の車両に行く通路の扉)、自動扉を手動にするドアコックの位置が分かりにくかったことで多くの乗客が車内に閉じ込められ、被害が拡大した。 影響同種の電車全車両について緊急に、ドアコックの扉脇への移設と明示化、貫通扉の引戸化、車両の絶縁強化と変電所への安全装置設置が実施された。後に三段窓中段の可動化や二段窓化に車両の難燃化も実施。 1952年10月8日 イギリス・ハローアンドウェルドストーン駅列車二重衝突事故(死傷者112名)概要1952年10月8日朝、イギリス・ロンドン郊外のハローアンドウェルドストーン駅構内で、停車中のユーストン行上り通勤列車に後続のバース発ロンドン行上り寝台急行列車が追突し脱線、下り線を支障したところにリバプール行下り急行列車が進入し衝突した。 原因寝台急行列車の運転手の信号確認ミス。 影響イギリス国鉄は全車両に車内警報装置を設置した。 1953年10月17日 山陽線貨物列車脱線事故(死傷者なし)概要1953年10月17日20時20分、広島県の国鉄山陽本線瀬野・安芸中野間で下り貨物列車(D52形式蒸気機関車+貨車59両)の貨車11両が脱線や転覆した。 原因貨車のフランジが欠けたため。当時の客車や貨車は車輪の外側にフランジを別部品ではめ、摩耗や破損があればその部品だけ交換していた。 影響客車や貨車にも機関車や動力車と同じような、車輪もフランジも一体で鋳造する一体車輪が導入された。 1954年9月26日 「洞爺丸事故」(死者1,139〜1,155名・負傷者約150名)概要1954年9月26日22時43分、青函連絡船洞爺丸が台風15号による荒天により函館港沖で座礁、横転、沈没した。 原因大型台風の中で出港したため。18時に函館を出港したが荒天で航行を断念、湾内で投錨し天候回復を待っていた。出港の理由は一時的な天候回復を台風通過と誤認した、休航が長期化する中で移動中の国鉄幹部の出港要請に屈した、など諸説がある。貨物船3隻も沈没。 影響同年11月には早くも東映から映画化、タイタニック号に次ぐ犠牲者数で当時世界第二位の海難事故として歴史に刻まれる。台風は後に洞爺丸台風と命名、青函トンネルの実現を後押しした。 1955年1月20日 飯田線列車脱線転落事故(死者5名・負傷者31名)概要1955年1月20日21時5分、国鉄飯田線田本・門島間で下り列車(電車2両編成)が落石に衝突、橋梁から転落し大破した。 原因電車が落石に乗り上げたため。 影響被害の大きい落石事故として飯田線史に刻まれる。 1955年5月11日 「紫雲丸事故」(死者168名・負傷者51〜383名)概要1955年5月11日6時56分、香川県の高松港沖合約2kmの瀬戸内海女木島沖で、国鉄宇高連絡線高松発宇野行旅客便(紫雲丸)と宇野発高松行貨物便(第三宇高丸)が衝突、紫雲丸が沈没した。 原因濃霧による視界不良。レーダー装置を両船の船長が使いこなせなかった、紫雲丸が法律に反して進路左側に航路を取ったことなども指摘される。衝突直後の全船停電とわずか5分での沈没が被害を拡大した。 影響犠牲者数で当時世界第三位の海難事故、当時前年の洞爺丸に続く国鉄連絡船の沈没、犠牲者のうち100名が修学旅行の小中学生で、世間の非難を浴びた。長崎国鉄総裁が辞任。瀬戸大橋の実現を後押しした。 1955年5月20日 常磐線貨物列車脱線転覆事故(負傷者なし)概要1955年5月20日23時45分、国鉄常磐線内原駅構内で下り貨物列車(D51形式蒸気機関車+貨車41両)の貨車9両が脱線転覆した。 原因貨車の車軸が折れたため。車軸にもともと存在した傷が走行中に拡大したと思われる。 影響車両の車軸の探傷技術の進歩を促した。 1956年7月3日 士幌線貨車逸走事故(死者5名・負傷者62名)概要1956年7月3日7時14分、北海道の国鉄士幌線士幌・上士幌間で貨車と下り列車(気動車1両編成)が衝突した。 原因上士幌駅での貨車の組替作業で、停車中の貨車に突放により別の貨車を連結した際に下り勾配を走り出してしまったもの。突放とは貨車を押して連結を外し惰性で遠方の貨車にぶつけて連結する方法で、これ自体は禁止されていない。ただ、同駅では構内の勾配のために突放作業が禁止されていたと記す資料もある。 影響ブレーキの確実化や車止めの設置など、突放作業の安全対策が強化された。1984年の国鉄貨物縮小で同種の作業自体がほぼ絶滅した。なお、士幌線は1985年に廃止。 1956年10月15日 参宮線六軒駅列車衝突事故(死者40〜42名・負傷者94〜96名)概要1956年10月15日18時22分、国鉄参宮線(現在のJR東海紀勢本線)六軒駅構内で、鳥羽行快速列車(C51形式蒸気機関車+客車9両)が安全側線に進入し脱線、直後に名古屋行快速列車(C57形式蒸気機関車+C51形式蒸気機関車+客車11両)が衝突した。 原因下り列車が遅延のため、上り列車とのすれ違い駅を松阪から六軒に変更、しかし下り列車は六軒駅を通過しようとして停止信号に気が付き非常ブレーキをかけたが間に合わず、安全側線のシステムで脱線したところに上り列車が入ってきたもの。裁判では下り列車の運転士の信号誤認が原因だとされている。 影響犠牲者の多くが東京教育大学付属坂戸高校(中学校?)の修学旅行生であったため、社会的影響が大きかった。国鉄は先方の停止信号を音で運転士に知らせる車内警報装置の採用を決定、地方路線を主にテコによる手動操作式が多かった信号機の自動化や色灯化が促進された。 1957年5月17日 常磐線列車脱線転覆事故(死者3名・負傷者54名)概要1957年5月17日20時30分、国鉄常磐線大野・長塚間で下り列車(C62形式蒸気機関車+客車9両)の機関車と客車3両が脱線転覆し築堤下に転落、客車2両が脱線した。 原因線路下をくぐる道路を通過したトラックの積荷が鉄道の橋桁にぶつかり線路がゆがんだため。 影響全国の同様な箇所に、現在でも見られる鉄骨等による防護桁が設置された。 1958年8月14日 特急「かもめ」踏切脱線転覆事故(負傷者43名)概要1958年8月14日14時3分、山陽本線岩国・南岩国間で京都行特急「第6かもめ」(C62形式蒸気機関車+客車9両)が踏切で米軍トラックと衝突、機関車と客車5両が脱線転覆した。 原因警報機はあるが遮断機のない踏切で、警報作動中にトラックが進入したもの。直前に下り列車が通過したため、運転手が誤認したものと思われる。 影響複線区間の踏切の警報機に列車の進行方向を示す矢印が整備された。 |