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●1940年1月29日 安治川口駅ガソリンカー火災事故(死者181〜190名・負傷者82〜92名)
(概要) 1940年1月29日6時56分頃、大阪府大阪市の鉄道省西成線(現在のJR西日本桜島線)安治川口駅構内で、下り列車(キハ42000形式3両編成)が脱線し横転、燃料のガソリンに引火して火災が発生し、多くの乗客が窒息死した。 (原因) 遅延列車の最後尾車の通過中に分岐器が操作され車両が股裂きに遭ったもの。沿線に軍需工場が多く車内は超満員であったことと、燃料が燃えやすかったことで被害が大きくなった。 (影響) 西成線は緊急に電化され翌年1月に電車での運転に切り替えられた。また、戦後に燃料事情が改善されてからもガソリン動力の鉄道車両の再登場はなかった。また、2004年2月時点で犠牲者数国内史上最悪の鉄道事故とされる。 |
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●1940年3月5日 米坂線列車転落事故(死者6〜16名・負傷者30名)
(概要) 1940年3月5日8時45分、米坂線小国・玉川口間で、雪崩の直撃を受けて崩壊した荒川橋梁に米沢発坂町行列車(8620形式蒸気機関車+貨車2両+客車3両)が突っ込み、25m下の荒川に転落した。 (原因) 鉄橋の崩壊の直後に列車が進入したため。 (影響) 不運な自然災害事故としてよく紹介されている。 |
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●1941年9月16日 網干駅列車追突事故(死者65名・負傷者71〜110名)
(概要) 1941年9月16日18時12分、兵庫県の山陽線網干駅で、停車中の上り旅客列車(C57形式蒸気機関車+客車9両)に後続の下関発東京行第8急行列車(C53形式蒸気機関車+客車13両)が追突、停車列車の後部4両と急行列車の前部3両が脱線転覆した。 (原因) 急行列車が停止信号を無視したため。 (影響) 自動列車停止装置(ATS)の採用が本格的に取り組まれる契機となったとされる。また、従来は自動車と同様に注意するだけで良かった注意信号について、時速45キロ以下での徐行が広められた。 |
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●1944年3月12日 山田線列車転落事故(死者1名・負傷者1名)
(概要) 1944年3月12日7時56分、山田線で、雪崩で崩壊した鉄橋に下り貨物列車(C58形式蒸気機関車+貨車5〜13両)が突っ込み谷底へ転落、機関士が死亡し機関助士が負傷した。 (原因) 雪崩により鉄橋が崩壊したため。 (影響) 機関士が瀕死の重傷を負いながら事故拡大防止のため機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談が戦後に「大いなる旅路」として映画化され、世に広く知られることとなった。撮影では現地付近で実際に本物の列車を突き落としたことも鉄道ファンに知られる。 |
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●1944年9月3日 高野山電気鉄道線脱線転覆事故(死者71名・負傷者138名)
(概要) 1944年9月3日18時頃、高野山電気鉄道線紀伊細川・上古沢間(現在の南海高野線)で極楽橋発難波行列車(電車2両編成)が勾配を駆け降りて脱線転覆した。 (原因) 電車が床下から火を噴いたため停車し調査していたところ、33パーミル(3.3%)の勾配で電車が動き出したため。ブレーキの取り扱いミスと見られる。 (影響) 南海ファンの南海鉄道史に刻まれる。社史には一切の記述がないという。 |
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●1944年11月19日 山陽線列車追突事故(死者38名・負傷者59名)
(概要) 1944年11月19日1時56分頃、山陽線上郡・三石間で、停止中の下り列車(C57形式蒸気機関車+客車11両)に後続の貨物列車(D52形式蒸気機関車+貨車56両)が追突、客車5両が脱線大破した。 (原因) 貨物列車の乗務員の居眠り運転と見られる。 (影響) 後に貨物列車の機関士が機関車の火室に身を投じて自殺、鉄道事故の責任を精神論で当事者のミスにのみ求めシステムの不備や事後の教訓を軽視する風潮の犠牲者の一例として紹介されることがある。 |
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●1945年8月5日 中央本線419列車機銃掃射事件(死者52名・負傷者133名)
(概要) 1945年8月5日10時30分頃または12時30分頃、中央本線浅川駅(現・高尾駅)を出発した新宿発長野行普通列車が猪鼻(湯ノ花?)トンネル付近で米軍機の機銃掃射を受けた。 (原因) 太平洋戦争によるもの。8月2日の八王子空襲後の初列車で乗客が多かったことも被害を拡大したか。 (影響) 国内最悪の列車銃撃事件として鉄道史と戦史に刻まれる。なお、死傷者数は現地建立の碑文によるもので、死傷者数900名以上という説もある。 |
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●1945年8月22日 肥薩線列車退行事故(死者49名・負傷者20名)
(概要) 1945年8月22日12時7分頃、肥薩線吉松・真幸間のトンネル内で上り列車(D51形式蒸気機関車2両+客車6両+貨車6両)が勾配を登れなくなり停車。乗客の窒息防止のため勾配を利用して後退を始めたところ、自主的に線路に下り歩いていた乗客を次々にはねた。 (原因) 戦争による鉄道施設疲弊、石炭の品質低下、列車の超満員、案内設備の未整備、乗客の誘導連絡不十分など、つまり鉄道事故というよりも戦争被害と見なされている。 (影響) 戦争の悲劇として幾度も紹介されている。肥薩線の観光列車「しんぺい」「いさぶろう」の車内でも放送がある。 |
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●1945年8月24日 八高線列車正面衝突事故(死者104〜105名・負傷者67〜150名)
(概要) 1945年8月24日7時40分頃、八高線小宮・拝島間の多摩川橋梁上で下り列車と上り列車(いずれも8800形式?蒸気機関車+客車5両)が正面衝突し脱線転落、増水した川に流された。 (原因) 信号故障により、指導式の代用閉塞、1区間に1名に指導者を選定しその人が乗る列車のみが該当区間内を通行できる方法で列車を運行していたが、その取扱ミスで2名の指導者が1区間に並立してしまい、単線区間に2列車が入ったもの。 (影響) 同じ八高線で発生した2年後の事故と共に、戦争の悲劇として幾度も紹介されている。2003年11月13日に河川敷で2001年発見の車輪を引き上げた。 |
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●1945年11月18日 神戸電鉄脱線転覆事故(死者48名・負傷者180名)
(概要) 1945年11月18日10時30分、神戸電鉄本線丸山・長田間で神戸行電車(電車2両編成)が脱線転覆した。 (原因) ブレーキが利かず最大40パーミル(4.0%)の急勾配を転げ落ちたため。運転手の運転ミスと思われる。 (影響) 神戸電鉄史に刻まれる。 |
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●1946年1月28日 小田急線脱線転覆事故(死者30名・負傷者165名)
(概要) 1946年1月28日10時頃、神奈川県の小田急小田原線で、故障で停止していた小田原行列車(電車2両編成)が点検中に動き出し、脱線して大根駅ホームに衝突した。 (原因) 停車中にブレーキが緩み下り勾配を駆け下りたもの。その原因は不詳。 (影響) 小田急電鉄史に刻まれる。 |
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● 1946年5月8日 国府津駅列車追突事故(死者1名・負傷者78名)
(概要) 1946年5月8日2時頃、神奈川県の東海道本線国府津駅で、停車中の下り貨物列車(EF10形式電気機関車+貨車61両)に下り列車(EF57形式電気機関車+客車9両)が追突した。 (原因) 追突列車の居眠り運転と見られる。 (影響) 同種の事故の頻発により、連合軍総司令部(GHQ)から事故防止の特別指示が出された。 |
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●1946年6月4日 中央線乗客転落事故(死者3名)
(概要) 1946年6月4日8時24分、中央本線大久保・東中野間で上り電車(電車6両編成)のドアが外れて、乗客が神田川へ転落した。 (原因) 電車の超満員による圧力にドアが耐えられなかったもの。当時の資材不足や車両不足も遠因にあった。 (影響) 現在の電車にも付いている、自動扉の脱出止め装置が取り付けられた。また、木製のドアの鋼製化が促進された。 |
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●1946年12月24日 近鉄電車追突事故(死者18名・負傷者53名)
(概要) 1946年12月24日9時30分頃、近鉄奈良線石切・生駒間の生駒山トンネル内で、停止中の上六行急行列車(電車3両編成)に後続の上六行列車(電車2両)が追突した。 (原因) 後続電車の信号無視が原因と思われる。急勾配とトンネル内での事故が被害を拡大した。 (影響) 近鉄は翌年4月の事故と合わせて世間の非難を浴びた。 |
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●1947年2月25日 国鉄・八高線列車脱線転覆事故(死者184名・負傷者495〜497名)
(概要) 1947年2月25日7時50分頃、八高線東飯能・高麗川間で八王子発の下り普通列車(蒸気機関車+客車6両)の後部客車4両が曲線で脱線し盛土を転げ落ちた。 (原因) 下り急勾配でブレーキが利かず速度が上がりすぎたため。食料買出客による列車の超満員と壊れやすい老朽木造車両が被害を拡大した。 (影響) 木製客車の撲滅を目的に、鋼製客車の新製投入に加える措置として、1955年までに既存の木製客車全車両の鋼体化を実現した。犠牲者数で国内史上2番目の鉄道事故として歴史に刻まれる。また、同じ八高線の2年前の事故と合わせて紹介されることが多い。 |
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●1947年4月16日 近鉄生駒トンネル電車火災事故(死者28名・負傷者58名)
(概要) 1947年4月16日14時15分、近鉄奈良線石切・生駒間の生駒トンネルで、上六行列車(電車3両編成)の床下から出火、全車両が全焼した。 (原因) 電車の抵抗器からの発火とされている。 (影響) 前年12月に同じトンネルで追突事故を起こしたばかりなので、世間の非難を浴びた。 |
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●1948年3月31日 近鉄奈良線花園駅列車追突事故(死者49名・負傷者282名)
(概要) 1948年3月31日、近鉄奈良線花園駅で、上六(現在の上本町)行普通列車に奈良発上六行急行列車(電車3両編成)が追突した。 (原因) 空気管の老朽化による急行列車のブレーキ故障によるもの。生駒トンネル走行中に故障し、急勾配を下る際に加速した。 (影響) 戦後の混乱の中の大事故として鉄道史に刻まれる。 |
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●1949年7月15日 「三鷹事件」(死者6名・負傷者19名)
(概要) 1949年7月15日21時25分、東京都の中央線三鷹電車区構内に留置中の車両(電車7両編成)が突然に動き出し、時速約70キロで車止めを突き破って駅舎や交番や民家を破壊した。 (原因) 不明。国鉄の職員約9.5万人削減計画との関連性が疑われている。 (影響) 共産党系の労働組合員が容疑者とされた。「松川事件」「下川事件」と共に国鉄発足時の謎の事故として歴史に刻まれる。 |
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●1949年8月17日 「松川事件」(死者3名・負傷者9名)
(概要) 1949年8月17日3時20分頃、東北本線松川・金屋川間で上り列車(C51形式蒸気機関車+客車12両)の機関車と客車前3両が脱線転覆した。 (原因) 曲線区間で、線路のレールをつなぐ継目板と、レールを枕木に固定する犬釘が故意に外されていたもの。国鉄の職員約9.5万人削減計画との関連性が疑われている。 (影響) 左翼系の労働組合員が容疑者とされたが、最高裁で無罪判決。「三鷹事件」「下川事件」と共に国鉄発足時の謎の事故として歴史に刻まれる。 |
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●1951年4月24日 「桜木町事故」(死者106名・負傷者92名)
(概要) 1951年4月24日13時40分頃、国鉄「京浜線」(現在のJR東日本根岸線)横浜・桜木町間で桜木町行列車(63系電車5両編成)に火災が発生、先頭車1両が全焼し隣の1両にも延焼した。 (原因) 架線工事ミスにより垂れ下がった架線と車体が接触し発火したもの。中段固定の三段窓、内開きの貫通扉(隣の車両に行く通路の扉)、自動扉を手動にするドアコックの位置が分かりにくかったことで多くの乗客が車内に閉じ込められ、被害が拡大した。 (影響) 同種の電車全車両について緊急に、ドアコックの扉脇への移設と明示化、貫通扉の引戸化、車両の絶縁強化と変電所への安全装置設置が実施された。後に三段窓中段の可動化や二段窓化に車両の難燃化も実施。 |
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●1952年10月8日 イギリス・ハローアンドウェルドストーン駅列車二重衝突事故(死傷者112名)
(概要) 1952年10月8日朝、イギリス・ロンドン郊外のハローアンドウェルドストーン駅構内で、停車中のユーストン行上り通勤列車に後続のバース発ロンドン行上り寝台急行列車が追突し脱線、下り線を支障したところにリバプール行下り急行列車が進入し衝突した。 (原因) 寝台急行列車の運転手の信号確認ミス。 (影響) イギリス国鉄は全車両に車内警報装置を設置した。 |
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●1953年10月17日 山陽線貨物列車脱線事故(死傷者なし)
(概要) 1953年10月17日20時20分、広島県の国鉄山陽本線瀬野・安芸中野間で下り貨物列車(D52形式蒸気機関車+貨車59両)の貨車11両が脱線や転覆した。 (原因) 貨車のフランジが欠けたため。当時の客車や貨車は車輪の外側にフランジを別部品ではめ、摩耗や破損があればその部品だけ交換していた。 (影響) 客車や貨車にも機関車や動力車と同じような、車輪もフランジも一体で鋳造する一体車輪が導入された。 |
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●1954年9月26日 「洞爺丸事故」(死者1,139〜1,155名・負傷者約150名)
(概要) 1954年9月26日22時43分、青函連絡船洞爺丸が台風15号による荒天により函館港沖で座礁、横転、沈没した。 (原因) 大型台風の中で出港したため。18時に函館を出港したが荒天で航行を断念、湾内で投錨し天候回復を待っていた。出港の理由は一時的な天候回復を台風通過と誤認した、休航が長期化する中で移動中の国鉄幹部の出港要請に屈した、など諸説がある。貨物船3隻も沈没。 (影響) 同年11月には早くも東映から映画化、タイタニック号に次ぐ犠牲者数で当時世界第二位の海難事故として歴史に刻まれる。台風は後に洞爺丸台風と命名、青函トンネルの実現を後押しした。 |
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●1955年1月20日 飯田線列車脱線転落事故(死者5名・負傷者31名)
(概要) 1955年1月20日21時5分、国鉄飯田線田本・門島間で下り列車(電車2両編成)が落石に衝突、橋梁から転落し大破した。 (原因) 電車が落石に乗り上げたため。 (影響) 被害の大きい落石事故として飯田線史に刻まれる。 |
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●1955年5月11日 「紫雲丸事故」(死者168名・負傷者51〜383名)
(概要) 1955年5月11日6時56分、香川県の高松港沖合約2kmの瀬戸内海女木島沖で、国鉄宇高連絡線高松発宇野行旅客便(紫雲丸)と宇野発高松行貨物便(第三宇高丸)が衝突、紫雲丸が沈没した。 (原因) 濃霧による視界不良。レーダー装置を両船の船長が使いこなせなかった、紫雲丸が法律に反して進路左側に航路を取ったことなども指摘される。衝突直後の全船停電とわずか5分での沈没が被害を拡大した。 (影響) 犠牲者数で当時世界第三位の海難事故、当時前年の洞爺丸に続く国鉄連絡船の沈没、犠牲者のうち100名が修学旅行の小中学生で、世間の非難を浴びた。長崎国鉄総裁が辞任。瀬戸大橋の実現を後押しした。 |
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●1955年5月20日 常磐線貨物列車脱線転覆事故(負傷者なし)
(概要) 1955年5月20日23時45分、国鉄常磐線内原駅構内で下り貨物列車(D51形式蒸気機関車+貨車41両)の貨車9両が脱線転覆した。 (原因) 貨車の車軸が折れたため。車軸にもともと存在した傷が走行中に拡大したと思われる。 (影響) 車両の車軸の探傷技術の進歩を促した。 |
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●1956年7月3日 士幌線貨車逸走事故(死者5名・負傷者62名)
(概要) 1956年7月3日7時14分、北海道の国鉄士幌線士幌・上士幌間で貨車と下り列車(気動車1両編成)が衝突した。 (原因) 上士幌駅での貨車の組替作業で、停車中の貨車に突放により別の貨車を連結した際に下り勾配を走り出してしまったもの。突放とは貨車を押して連結を外し惰性で遠方の貨車にぶつけて連結する方法で、これ自体は禁止されていない。ただ、同駅では構内の勾配のために突放作業が禁止されていたと記す資料もある。 (影響) ブレーキの確実化や車止めの設置など、突放作業の安全対策が強化された。1984年の国鉄貨物縮小で同種の作業自体がほぼ絶滅した。なお、士幌線は1985年に廃止。 |
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●1956年10月15日 参宮線六軒駅列車衝突事故(死者40〜42名・負傷者94〜96名)
(概要) 1956年10月15日18時22分、国鉄参宮線(現在のJR東海紀勢本線)六軒駅構内で、鳥羽行快速列車(C51形式蒸気機関車+客車9両)が安全側線に進入し脱線、直後に名古屋行快速列車(C57形式蒸気機関車+C51形式蒸気機関車+客車11両)が衝突した。 (原因) 下り列車が遅延のため、上り列車とのすれ違い駅を松阪から六軒に変更、しかし下り列車は六軒駅を通過しようとして停止信号に気が付き非常ブレーキをかけたが間に合わず、安全側線のシステムで脱線したところに上り列車が入ってきたもの。裁判では下り列車の運転士の信号誤認が原因だとされている。 (影響) 犠牲者の多くが東京教育大学付属坂戸高校(中学校?)の修学旅行生であったため、社会的影響が大きかった。国鉄は先方の停止信号を音で運転士に知らせる車内警報装置の採用を決定、地方路線を主にテコによる手動操作式が多かった信号機の自動化や色灯化が促進された。 |
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●1957年5月17日 常磐線列車脱線転覆事故(死者3名・負傷者54名)
(概要) 1957年5月17日20時30分、国鉄常磐線大野・長塚間で下り列車(C62形式蒸気機関車+客車9両)の機関車と客車3両が脱線転覆し築堤下に転落、客車2両が脱線した。 (原因) 線路下をくぐる道路を通過したトラックの積荷が鉄道の橋桁にぶつかり線路がゆがんだため。 (影響) 全国の同様な箇所に、現在でも見られる鉄骨等による防護桁が設置された。 |
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●1958年8月14日 特急「かもめ」踏切脱線転覆事故(負傷者43名)
(概要) 1958年8月14日14時3分、山陽本線岩国・南岩国間で京都行特急「第6かもめ」(C62形式蒸気機関車+客車9両)が踏切で米軍トラックと衝突、機関車と客車5両が脱線転覆した。 (原因) 警報機はあるが遮断機のない踏切で、警報作動中にトラックが進入したもの。直前に下り列車が通過したため、運転手が誤認したものと思われる。 (影響) 複線区間の踏切の警報機に列車の進行方向を示す矢印が整備された。 |